1年生と2年生のチームで挑む新人戦には今後のチームを担う “新星” を見つける楽しみがある。東海大の2年生小林巧も今大会で見つけた成長株の1人だろう。キャプテン金近廉のケガによる途中離脱(筑波戦前半)も響き結果的に6位に終わった東海大だが、準々決勝の筑波大戦では最大20点差から3点差まで詰め寄る猛攻を見せ、白鷗大との5位-6位決定戦でも二桁のビハインドを3Q終了時に2点差まで縮めて場内を沸かせた。この2試合で小林が残した数字は35.11分出場、28得点(筑波大戦)、37.56分出場、11得点(白鷗大戦)。中でも居並ぶ次代のエース候補たちを差し置いてゲームハイを記録した筑波戦では「あの選手はだれ?」と観客の注目を集めた。
「もともとオフェンス能力は高い選手。周りを驚かすトリッキーなプレーも得意で、彼が持つ能力は先輩の大倉颯太(千葉ジェッツ)も認めていたぐらいです」と語る陸川章監督は「今まで発揮しきれていなかった力が、今日のように開き直ったことで自然に表に出たのかなと思います」と目を細めた。
兵庫県明石市に生まれた小林は小学5年生からバスケットを始め、神戸村野工業高校に進学。
「自分たちの時代の兵庫では報徳学園が強くて進学するときも迷ったんですが、見学に行った村野工業の雰囲気がすごく良くてここで自分を磨こうと決めました」
ポイントガードにコンバートしたのは自分たちの代になってから。それまではシューターとしてチームを引っ張ってきたが、当時からプロの道を目指していた小林は「自分の身長(182cm)を考えたら、これからはガードのスキルを付けた方がいいと考えて、自分から先生にお願いしました」と言う。つまり、そのころから自分の将来を見据えていたということだ。が、村野工業の最高成績は県大会ベスト4。全国の舞台は踏めず、小林は “無名選手” のまま3年間を終えることになる。東海大への進学も乞われたものではなく、「自分から売り込んだ」ものだった。
「レベルが高い関東の大学でプレーしたいという気持ちはずっとあって、その中でもどうせやるなら日本一の東海大でやりたいと思っていました。その決意を先生に伝えたことで先生から陸さん(陸川監督)に伝わり、幸運なことに東海大に進むことができたんです」
しかし、入ってみて練習のレベルの高さに呆然とした。ただでさえ「小学生のときからディフェンスが苦手だった」という小林は「それまでなんとかごまかしてやってきたディフェンスがまったく通用しない」ことを思い知らされ「これはヤバい」と青ざめたそうだ。
「1年上に河村勇輝さん(横浜ビー・コルセアーズ)がいたんですけど、スピード、センス、ボールハンドリング、相手の動きを読む力、なにもかもがすごくてボールをもらったり、運んだりするのさえ苦労している自分とは大違い。ほんとに最初は愕然とすることばかりでした」
ケガでしばらくチームを離れていたエースの大倉颯太が戻ってきたときも衝撃を受けた。