また津屋には耳が不自由な選手たちによって構成されたデフバスケットボールの日本代表というもう一つの顔がある。難聴という障害を持ち普段は補聴器を付けている津屋が、デフバスケットでは補聴器を外し音のない世界でプレーする。U21デフバスケットボール世界選手権では堂々大会MVPに選出された。「自分と同じような障害を持った人でも頑張れば成し遂げられることがあるよ、ということを伝えられる選手になりたい。デフバスケットの活動はこれからも続けていきます」──。
そんな津屋を4年間間近で見てきた西田は「あいつは本当に努力家で、自分が決めたことは何があってもまっすぐ突き進む熱い男」と評する。そして、「この1年、寝ているとき以外はずっとチームことを考えていた」という津屋が思い詰めたような顔をしていたら、すかさず話を聞き気持ちを楽にさせるのが「自分と碧人の役割」だと思っていた。コロナ禍で大学が封鎖されると、3人は青森(津屋)、徳島(西田)、大分(木下)の実家に散ったが、ことあるごとに電話で連絡を取っていたという。「トーナメントもリーグ戦も中止になって、もしかするとインカレもできないまま終わるんじゃないかという不安がありました。そんなとき優大や碧人の声を聞くとなんだか落ち着くんです。毎日どんなトレーニングをやっているの?何時間ぐらい?とかバスケの話はするけど、バスケじゃない日常の些細なことも話して、頑張ろうなぁ、じゃあまたなぁで終わる、どうってことない電話なんですけど、そんな電話ができる2人がいたことは自分にとってすごくありがたいことでした」
西田のエースとしての覚悟
西田にもまた、2人への感謝の気持ちがある。「日本代表メンバー候補とBリーグ(名古屋ダイヤモンドドルフィンズ)の特別指定選手になったことで1月、2月、3月と僕は東海大を離れたんですね。新チームの土台作りが始まった時期で、身体を作るために相当きついトレーニングをしていたと聞きました。その大事な時期にチームを抜けた自分の分も頑張ってくれた2人には今もすごく感謝しています」
年代別アンダーカテゴリーのすべての代表に選出されたキャリアを持つ西田は期待のシューターとして東海大入りした。最初に苦労したのは「高校のときから嫌いだったディフェンス」だという。「でも、東海がディフェンスのチームだということは入る前からわかっていたことなので、とにかく練習、練習です。身体が動くようになって、対戦相手についていけるようになったのは2年の春ぐらいかな。初めてディフェンスが楽しいという感覚が芽生えました。それからは徐々に相手のエースとマッチアップする役割も与えてもらえるようになってディフェンスに対する自信もついていった気がします」。が、その一方で本来の武器であるシュートの確率が上がらず、エースと呼ばれることに悩んだ時期もあった。「でも、新チーム発足前に津屋から改めて『おまえはチームのエースだ』と言われたんです」
それは新しいキャプテンを決めるために6人で集まった日のことだった。口火を切ったのは津屋。「俺はチームのためならきついことでもはっきり口にする。そのためにみんなに嫌われても構わない。そういう覚悟を持ってチームを牽引するキャプテンになりたい」。そして、西田に向かってこう続けた。「おまえはエースだ。だからおまえにエースとしてコートの上でチームを引っ張ってほしい。それはおまえにしかできないことだと思う」。西田はその言葉で何かが吹っ切れた。津屋が〝嫌われる勇気〞を持ってキャプテンに臨むなら、自分は〝チームを勝たせるエース〞を目指そう。後にインカレで見せた本領発揮の姿には覚悟を決めたエースのたくましさがあった。