過去2シーズンは出場機会こそなかったが、その間で技術以上に精神的な成長を加藤は実感していた。
「意識改革からはじまり、コーチにはいつもプロになりたいと伝えています。そこから練習量も増えていきましたし、スキルも上がっていったと思います」
2部に昇格した2年前、加藤が入学したとき、柴山監督が「インカレ出場を目標にしよう」と発破をかけたが、当時の選手たちにはあまり響かなかった。その一方で、「プロになりたい」という加藤と同じ目標を持つ選手は多く、その通過点としてインカレ出場が近道でもある。プロやインカレという目標を高い位置に定めたことで、柴山監督は「自信がついたように思います」という印象を受けていた。短期決戦で、2度の1部チームと対戦した今シーズンは急速な変化を見せている。
「チャレンジマッチのときはものすごく緊張していました。でも、そこを乗り越えられたことで、練習の雰囲気などいろんな部分で変わったような気がします。今日、インカレという大学生にとって最高の舞台でプレーできたことで、みんながもう一回出たいという気持ちが強くなりました。もう一回、インカレに出たいです。それまでの道のりは大変ですけどね」(柴山監督)
最上級生となる加藤は来シーズンへ向けて、「絶対に歴代で最高の成績を残したいです」と新たな目標を定め、彼らの挑戦はまだまだ続いていく。
専修大学と柴山英士監督のつながり
初戦の相手となった専修大学が、インカレを制して日本一になったのは2002年のとき。AND1 MIXTAPEが輸入され、ストリートボールの人気が高まっていた時期である。優勝した専修大学は、ウォームアップでは派手なダンクを次々にかまし、最後はハンドリングの妙技でフリースタイルを披露し、会場を沸かせていた。アメリカに留学し、メキシコでプロリーグにも参戦した経験を持つ柴山監督が帰国したのもその年である。当時の4年生たちと同い年だ。
日本でストリートボールを根付かせたいという野望を持って凱旋し、AJの異名でFAR EAST BALLERSを発足。専修大学の選手たちも一緒にステージの上でパフォーマンスを披露したこともあった。その後、日本初のプロストリートボールリーグLEGENDや、人気を博すSOMECITYを作った張本人であり、今ではballaholic本部代表という肩書きもある。ストリートボーラーとして活動していたのと時を同じく、明星大学の指揮官としてのキャリアもスタートさせた。4部の頃は、ド派手なユニフォームでストリートのノリだった時代が懐かしい。
インカレに初出場を果たし、最初の相手が柴山監督と縁がある専修大学だったことがなんだか感慨深かった。練習試合も含めて、これまで一度も対戦経験がないそうだ。2回戦へ進み、専修大学との対戦が決まったときは「すごくうれしかったですね」というAJは、現役時代とは体格こそ大きく変わったが、変わらぬ丸い顔をほころばせていた。
文・写真 泉誠一