── 帰国してすぐ東海大の監督に就任されたのですか?
東海大で最初に部員たちに会ったのは帰国した2日後の3月11日。偶然ですが、私の39歳の誕生日でした。ぐるりと見渡したら髪が金色の子、黄色い子、赤い子、いろんな子がいて「おお、季節は春なのにみんなの頭は紅葉してるなあ」と言ったのを覚えています(笑)。技術面の核は自分が勉強してきたディフェンス、ファストブレーク、モーションの3本柱とし、目標としてホワイトボードに『1部昇格』『インカレ優勝』と書きました。書いたとたん大きな笑いが沸き起こった。たぶん「そんなの無理だろ」の笑いだったと思います。でも、私は大まじめでした。
── 「ダメだと思ったらダメだわや」ですね。
そうです。by親父(笑)。次の年、初めてリクルートを行い鹿児島の川内高校の西堂雅彦(元トヨタ自動車アルバルク)と新潟商業の池田雄一(新潟アルビレックスBB)を勧誘しました。西堂は中学までサッカーをやっていた選手ですが、体が強く、とにかくまじめ。池田はセンターをやっていましたが、シュートセンスがありフォームがマイケル・ジョーダンにそっくりでした。
── そして、翌年には竹内譲次(アルバルク東京)、石崎巧(琉球ゴールデンキングス)、内海慎吾(京都ハンナリーズ)など有力選手の獲得に成功します。阿部佑宇、井上聡人を加えたルーキーたちはU-18の日本代表メンバーであり『ファブ ファイブ』(1991年にミシガン大学がリクルートしたルーキーたちの愛称で驚異の5人の意)と呼ばれ注目を集めました。当時2部の東海大になぜこのような有力選手たちが集まったのか?選手たちは「これから一緒に強い東海を作っていこうというリクさんの情熱に心が動いた」と言っていたと記憶しています。
おっしゃるとおり2部の東海大にあれだけの選手が来てくれるかどうか私自身もわかりませんでした。きっかけは当時筑波大を指導していた日高哲朗先生(千葉大教授)とリクルートの話をしていたときです。私が「うちはまだ2部なので」と言ったら、日高先生に「それは違うよ」と言われた。「リクちゃん、リクルートというのは自分が欲しいと思った選手に声をかけるもんなんだよ」と。それで彼らに声をかける決心がつきました。これからの東海大には君たちの力が必要なんだと…そうですね、熱く語ったのは確かです(笑)
── 大学のコーチには4年にわたって『選手を育てる』という役割もあります。将来を担う選手たちを預かることにプレッシャーを感じることはなかったですか?
(竹内)譲次たちが入ったのは私がコーチになって3年目の年です。いわばコーチとしてはまだ新米。プレッシャーはなかったですが、神様から「この子たちを預かってみなさい」と言われたような気がして、なんて言うんですかね。もう一度シャキっと姿勢を正すような気持ちになりました。