45回目を迎えた全国高等学校バスケットボール選抜優勝大会。“ウインターカップ”としてすっかり定着し、今や高校生のバスケットボール選手にとっては憧れの舞台となった。
大会プログラムには出場校の紹介の他、「歴代出場校」「歴代上位校」と合わせ、「歴代ベスト5」が紹介されているが、先のインカレやNBL、WJBL、bjリーグなどで活躍している選手名を確認することができる。
また、出場校(母校)のコーチ欄に名前が記されているケースもあり、ウインターカップの歴史の長さを感じさせる。神奈川県代表・県立金沢総合の松木 静香(旧姓:横川)コーチもその一人。第9回大会、強豪・昭和学院が初優勝を果たした当時の主力で、松田 麻由美選手、高谷やす子選手とともにベスト5に選ばれた。
子育てを終えて教職に復帰
バスケの楽しさは「ママさん」で!?
高校卒業後は体育教師を目指し、筑波大へ進学。その後東京都の私学に勤め、ご主人と巡り会った。子育てに奮闘する専業主婦として、一時教職を離れた。4人の子どもを育てながら「末っ子が小学生になったのを機に、お花屋さんでのアルバイトから始め、教職への復帰を考え始めた」そうだ。神奈川に転居していたが、私学の教職採用支援のサイトに登録し、東海大相模で再び教職に就く。
──バスケットボールに関わりたいという思いはずっと持っていたんでしょうか?
松木:東海大相模高で非常勤として復帰し、臨時採用教員のような形で中等部へ異動しました。もちろんバスケット部を任され、弱小チームでしたが、一度、私学大会で相模女子に勝つことができたんです。高校バスケは、長女が金沢総合でお世話になっていたのでチームを応援するようになり、身近な世界になりましたね(笑)
──金沢総合からはすぐにお誘いがあったのでしょうか?
松木:東海大相模の任期切れが迫り、今度は神奈川県や横浜市などにも登録(臨時的任用職員及び非常勤講師)をしたところ、金総から連絡がありました。バスケのキャリアも考慮していただいたようですが、まだ子どもに手が掛かるから、ということで最初はお断りしたんです。ところが校長先生のお話を伺うと、「顧問の先生にヘッドコーチ、それにアシスタントコーチが居ますから」ということで、4番目だったら気が楽なのでお引き受けしようと……ところが、先生方の転勤が重なり、「来年、ヘッドコーチの適任者の赴任がなかったら、ヘッドコーチをお願いするかも知れません」ということになったんです。今年の4月から就任しました(昨年はアシスタントコーチ)。
──名門校のヘッドコーチということで、プレッシャーはなかったですか?
松木:それはなかったですね。ここの卒業生だったら違っていたかも知れませんが、そうではありません。かつて娘が選手として頑張っていたので、父母の目線という感じでしょうか。アシスタントとして1年間やっていますし、一生懸命頑張るこういう選手たちを指導できるというのは、「指導者冥利に尽きる」というか、こういう機会はなかなかないと思っています。
「日本一になりたい」と選んだ強豪校・昭和学院
──ご自身の競技歴を教えてください?
松木:バスケを始めたのはミニバスから。ようやく「ミニバス」というものが始まった頃ではないでしょうか。ポートボールからバスケに替わる頃で、仲間がやっていたので一緒にやるようになった感じです。中学(高根台中学)の恩師がとても熱心で、全国大会に出場しました。
──バスケが楽しかった?
松木:いえいえ、バスケが好き!って思えるようになったのは、もしかしたら「ママさん」からかも知れませんね(笑)バスケはそこそこできたので認めてもらえたというか、選択肢としてバスケしかなかったのかも知れません。他に何かやってみようという感覚はなかったですね。バスケをやるならとことんやってみたい、強いチームでやりたいと思っていました。“日本一になりたい”から昭和学院を選んだんです。
──全国大会の常連校になり、いよいよ日本一へという時期ですから厳しかったのでは?
松木:そうですね。ただ、日本一になりたいと思って選びまし、親も「最後まで頑張りなさい」と応援してくれたので頑張り通せたと思います。厳しいのは覚悟の上ですから(笑)西塚先生の指導が、それまでの実績をベースにしながら選手たちの自主性を重んじるようなところも増えてきて、私たちの代が壁を打ち破れたんだと思います。
──筑波大ではいかがでしたか?
松木:1年、3年でインカレ優勝。4年生ではキャプテンとして、リーグ戦の初優勝も経験しました。恵まれていたというか、いい仲間のいるチームでプレイすることができました。東京教員チームで国体に出場したり……専業主婦になってからは、近くにママさんバスケのチームがなくてバスケから離れざるを得ず、7年ぐらいはソフトボールをやりました。娘がミニバスを始めたら、そのチームの監督さんがママさんバスケの方だったので、チームに入れていただきプレイを再開したんです。
──昭和学院で優勝した頃と比べ、会場の雰囲気などはいかがでしょうか?
松木:当時は代々木第二が会場で、開催時期も3月。決勝戦は東京の東亜学園で、たくさんの観客の前でプレイしましたよ。会場に入れない方がたくさん居たと聞いていますし、とても盛り上がったと思います。ただ、プレイは今の子たちのほうが上手い。自分たちの頃を振り返ると恥ずかしい(笑)今の子はレベルが上がって、凄いなと思います。
バスケに関わり続け次世代へつなぐこと
──子どもたち(選手たち)に接する時、心掛けていることはありますか?
松木:勝つことも大事ですが、みんなで最後までやり通したいと思っています。今年のチームのテーマは「和」。3年生みんなでとか、チームみんなでとか、和を大事にしたチームづくりを心掛けています。もう親の目線かも知れません(笑)契約のことがあるので、今回が最後の全国大会になるかも……現役時代はチームメイトに恵まれたが、指導者としてまた新たな舞台に立つことができ、選手や周りの方々への感謝の気持ちでいっぱいです。
高校日本一を経験し、大学でも頂点に立ち、その後も立場を変えながらバスケに関わり続ける松木ヘッドコーチ。一時はバスケを離れたものの、大会ベスト5の名選手は指導者として“ウインターカップ”に戻って来た。
(金総でお世話になったという)お嬢さんは前十字靭帯の大ケガで最後のインターハイは欠場。ウインターカップはマネジャーとしてチームに帯同することに。
「学芸大で復帰を果たし、キャプテンを務めてバスケをやり切ったと思います。今は離れていますが、また戻って来るかも知れません。高校生の選手たちには、ずっとバスケへの思いを抱き続け欲しいですね。金総の子たちはまだ途中。進学しても就職しても、これからの人生の中で“バスケを続け、バスケと関わる”ことを考えながら、バスケを学んでいます。良い伝統であり、次の世代につないでいくことが大切だと思っています」(松木HC)
ウインターカップは、出場選手にとっては大きな区切りの大会かも知れない。が、これから先のバスケ人生は長い。それは予選で敗れた大勢の選手たちにとっても同じこと。新たなステージに向けたチャレンジが不可欠であり、大人たちのサポートが重要になる。これからもずっと、バスケに関心を持ち続ければ、きっとしみじみバスケが好きになるはずだ。
文・羽上田 昌彦(ハジョウダ マサヒコ)
スポーツ好きの編集屋。バスケ専門誌、JOC機関紙などの編 集に携 わった他、さまざまなジャンルの書籍・雑誌の編集を担当。この頃は「バスケを一歩前へ……」と、うわ言のようにつぶやきながら現場で取材を重ねている。 “みんなでバスケを応援しよう!”を合言葉に、バスケの楽しさ、面白さを伝えようと奮闘中。