リンク栃木との契約が満了となった川村卓也が晴れてアメリカに渡り、NBAへの挑戦を決めた。6月5日、出発を前に成田空港に現れた川村は、バッサリと髪を切り、晴れやかな表情で姿を現した。短いヘアスタイルは「ルーキーシーズン以来」と言う。
2005年、JBLでは希な高卒ルーキーとしてオーエスジー(現bj浜松)と契約し、トップレベルでのバスケキャリアをスタートさせる。その年の新人王に選ばれ、2006年に日本開催となったFIBA 世界選手権に日本代表として出場。当時、20歳を迎えた川村は、5試合全てに出場し、プレイタイムこそ少なかったがチャンスがあれば積極的にシュートを狙い、次世代スターとしての期待は膨れていった。しかし、2008-2009シーズンよりオーエスジーはbjリーグへ移転。そのためリンク栃木へ移籍し、そこから4シーズン連続JBL得点王となり、2009-2010シーズンには頂点に立った。優勝を決める年のオフシーズンとなった2009年、日本代表を辞退してアメリカへ渡り、NBAへ挑戦をしている。
今回で2度目の挑戦になるわけだが、4年前はメンタル面で打ちのめされていた。生意気やっていれば良かった血気盛んな22歳の前に立ち塞がったものとは──
ホームシックとイタリア セリエAでの誤算…4年前の経験を踏まえて挑む
「ホームシックです。ホテルにいる時も帰りたい気持ちが強く、その気持ちのままトレーニングに向かってしまっていました。土日なども出かけずに、軽い引きこもり状態にもなっていました。経験の無さと言うか、まだガキンチョだったと言うか、自分自身のことを分かっているようで分かっていませんでしたね。どこに対しても生意気をやっていれば良いと思っていたのが、実際にアメリカにポンと身を放り出してみたら、自分の小ささに気付かされました」と振り返る。それでも、NBAサマーリーグへの出場機会を得ることができ、その後、イタリア1部リーグ セリエAとの契約のため、イタリアへ渡っていた。そこまでの情報は入って来ていたが、実際イタリアの地で何が起きたのかを聞く機会が無かった。今回、NBAを目指すきっかけを与えたFIBA公認エージェントの鴨志田聡氏に当時の話を伺った。
「アメリカのエージェントがセリエAのチームをセットアップはしていたのは事実です。ただ、川村くんが行くという詳細は伝わっておらず、イタリアへ川村くんが行ったにも関わらず、現地エージェントがいませんでした。話を聞けば、チーム側としっかりとしたコンタクトが取れておらず、バスケットができなかったり、試合に出られる話だったのに出られない。通訳も一緒に行ったのですが、(会場の)中まで入れない。段取りが全くなっていませんでした」というのが真相だ。横で聞く川村もまた、「キャンプに参加できるという話でイタリアに行ったのに、実際に行ったら練習場の中に入れませんと言われたり大変だったんですよ、マジで!」と声を張る。
海のものとも山のものともつかぬ日本人バスケ選手が海外リーグへチャレンジするにあたり、現地エージェントなどの話に用心は必要だ。だからこそ、「今回、川村くんのトレーニングをしてくれるトレーナーとのつながりもありますし、自分のパートナーとしてのつながりがあるエージェントがアメリカとヨーロッパにいます。今後の状況に応じていろんな人とコンタクトを取って、チームを探していきます。また、試合の映像を全部持って行くので、自分から直接チームにコンタクトすることもできますし、思うように事が進まなくても第3、第4の手段も用意しており、絶対にどこかのチームに入れるようにするつもりです」と、これまでの経験を踏まえた予防線を張って臨む。
エージェントとしての鴨志田氏の経験、そして4年前にNBA挑戦をした川村の経験が、今回は大きな優位点。知らないことこそ恐ろしいものはなく、それがホームシックになった原因でもある。
「こうしてチャンスを与えてもらえたので今やるしかないと思い、行動に移しました。日本でしっかり地を固めることも大切ですが、オレはまだやれる気がしています。NBAを見ていてもそう思うし、4年前にアメリカ挑戦した時もそう感じていました。今、NBAで活躍している選手の中で、前回アメリカに行った時に一緒にトレーニングした選手が何人かいます。そういう選手のゲームを見ると、オレもやれたのにな…と思ってしまうんです。そう思うことが大事なんです。あの時は相当メンタルをやられましたが、今はメンタルもそうですが、技術も多少なりともバリエーションは増えていると思います」