挑戦をあきらめないという孤独
思えばここからが石崎のバスケ人生の中でもっとも苦しい時間だったかもしれない。ヨーロッパの情報に詳しいエージェントを通じてドイツのみならず、オランダ、ベルギー、スペイン…と新しい活動の場を探る日々が始まった。どこにも所属せず練習する場所を持たない石崎は帰国後知人の紹介でようやく借りられた体育館でトレーニングを再開する。噂を聞いた岡田優介(アルティーリ千葉)、西村文男(千葉ジェッツ)、渡邉祐規(宇都宮ブレックス)、満原優樹(琉球ゴールデンキングス)、遥天翼(茨城ロボッツ)など親交がある選手たちが日替わりでやって来て、佐々宜央(宇都宮ブレックスAC)が作成した練習メニューに沿って汗を流す姿が見られたが、そんな仲間たちもシーズンが近づけばそれぞれのチームに散っていく。1人になった石崎はそれでも毎日電車とバスを乗り継いで体育館に通った。自分がつくボールの音と自分が鳴らすバッシュの音だけが響くコートはどこか閑散としている。5月、6月、7月、8月…エージェントからの吉報は届かないまま時は容赦なく過ぎていった。「その間に声をかけてくれた日本のチームはいくつかあったんですが、やっぱり海外への挑戦をあきらめきれず全てお断りしました。でも、さすがに夏が終わるころには少し心が折れそうにもなりましたね。1人の練習が終わって、1人でモップ掛けをしながら、これから自分はどうなるのかなあと、そんなことを考えたりもしました」
「うちの練習生としてチャレンジしてみないか」とジョン・パトリックから連絡があったのは9月に入ってからだった。「時間も限られた練習生でしたが、認められれば正式メンバーに引き上げられるチャンスもあると聞いてその場ですぐ決心しました。どうなるかはわからんけど粘るだけ粘って、やれるところまでやってやろうと(笑)」
ジョン・パトリックが指揮を執るMHPリーゼン・ルートヴィヒスブルクにはアメリカ人のポイントガードが2人在籍しており日々のポジション争いは熾烈だったという。なんとか13人目のロスターに入ったものの行く道の厳しさに変わりはなく、つかみたいチャンスの糸は細く、頼りないものに感じられた。
練習後「話がある」とヘッドコーチに呼ばれたのは10月5日のことだ。「ロスターの変更があったから、明日の試合に出る準備をしておけ」── 喜びは驚きの後にやってきた。今まで味わったことのない興奮。「ドキドキしましたね。ドキドキがずっと止まりませんでした」。2013年10月6日、石崎はルートヴィヒスブルクのユニフォームを身に付け17分プレー、5得点をマーク。ドイツ・ブンデスリーガ1部リーグのコートに立った初めての日本人選手としてその名を残した。
「結果的にルートヴィヒスブルクとの契約は更新されず、2013-14シーズンをもって自分の挑戦に終止符を打つことになったんですが、それを決めたときの気持ちは、うーん、なんだろう。挫折感ともちょっと違うんですが、やっぱりそれに近い気持ちはあったのかなあ。でも、後悔はしなかったです。今も後悔は全然してないです。むしろドイツに挑戦しようと決断した自分をどこかで誇らしいと思っています。あのころの自分は日本のトップリーグでスタメンで出るとか、たくさんお金を稼ぐとか、そういうことはどうでもよくて、ただただ “自分がなりたい選手” になりたかったんですね。そのための努力はできたという自負はあります。でも、ドイツでの3年間を振り返ってくださいと言われたら今でも複雑な思いに駆られるんですよ。自分の世界を広げることはできましたが、同時に自分の限界も知らされた3年間、すごく大きなポジティブな感情とそれを上回るネガティブな感情を味わった3年間、改めてそんな気がしますね。正直、孤独に強いと思っていた自分ですら落ち込むことはありました。けど、同時に楽しいこともいっぱいあったわけで。言えるのはそのどっちも行かなければわからなかったということです。うん、そうですね。行かなければ絶対わからなかったこと、それを知ることで、人間的に少しは成長できたんじゃないかと思っています。今はあの3年間をそんなふうにとらえています」
「自分がなりたい自分になる」── 石崎巧という生き方
(4) 現役を続けることに限界を感じた に続く
文 松原貴実
写真 B.LEAGUE