「バスケットが自分にとって唯一無二のものとなり、続ける以上は日本一のガードになりたいと思ったのはそのころだと思います。とはいえ、あたりまえですが自分の上には自分より力のある先輩がたくさんいました。初めてそれを感じたのは代表のスプリングキャンプに呼んでもらった大学1年のときで、周りにいる先輩は本当にすごい選手ばかり。中でも柏木(真介・シーホース三河)さんにディフェンスされたときに味わった無力感は衝撃的でした。そういう衝撃ってずっと残るじゃないですか。それ以来、うーん、なんて言うんでしょうか、課題というのでもないんですが、自分が日本一のガードになるためには先を行く先輩たちを超えていかなければならないと思うようになって、その思いが変わることはなかったですね」
入社した東芝では同期の菊地祥平(アルバルク東京)とともにシーズン開幕戦からスターターに抜擢され、期待に応える活躍で華々しいデビューを飾った。チームの新しい顔として期待を寄せるファンも多かったはずだ。だが、意外なことに当の石崎にはどうしても消せないモヤモヤした思いがあったという。
「成長するために海を渡る」という選択
「自分がスターターというのに納得していない自分がいました。というのも当時の東芝には節政(貴弘)さんという秀でたポイントガードがいて、どう見ても自分の方が劣っているわけです。自分がスターターというかメインのガードを任されるのは節政さんを超えてからだと思っていました。節政さんが譲ってくれたという形ではなくて、少なくとも肩を並べるぐらい成長して勝ち取る形でコートに立つべきだと。だからルーキーでいきなりスターターなんてすごいねと言われても自分の中にはなんか、こう違和感があるわけで、そのせいでずっと胸がモヤモヤして…」
そのモヤモヤを払拭するためには自分がもっと上手くなるしかない。チーム練習以外の自主練の量を増やし、夜のランニングも日課に加えた。「でも…」と石崎は言う。「そのときの気持ちを上手く表現するのは難しいんですけど、自分が練習すればするほどどこか浮いてしまうというか、先輩たちはみんないい人ばかりなのに、なんて言えばいいんでしょう。やっきになって練習している自分と周りの温度差というか、うーん、やっぱり上手くいえませんが、とにかく自分の中に “このまま自分はここにいていいんだろうか” という疑問が芽生えたんです」
『成長するために海を渡る』決心をしたのはいつのときだったか。嫌いな飛行機に乗って向かう先に何が待っているのか、不安がなかったと言えば嘘になる。下した決断の裏測には「海外なんて行きたくないなあ」と思う自分もいた。日本にいればトップリーグの主力選手だ。オールスターにも選出され、日本代表の肩書も持っていた。「そうですよね。それは確かにそうなんですけど、自分が “なりたい自分” になるための方法が他に思い浮かばなかったんです」。それはつまり全く違う場所に身を置いて、自分を鍛えるということ。「あのとき自分を突き動かしていたのは『もっとステップアップしたい』という気持ちだけだったような気がします」。
石崎が東芝を退社してドイツに向かったのは2010年。3年目のシーズンを終えた春のことだった。
「自分がなりたい自分になる」── 石崎巧という生き方
(3) ドイツで本物のプロになった に続く
文 松原貴実
写真 B.LEAGUE