「もっとHCをサポートできたなという、ACとしての反省は出てきました。HCという立場になって違う世界が見えて、周りのコーチ陣がどうやって動けば良い仕組みになるかということを感じてるので、仮に安齋が戻ってきたとしたら、この経験が安齋にとってもプラスになるようにしていけるんじゃないかなと思ってます」
この日対戦したA千葉は、一昨シーズンにB1昇格を決めた際の相手でもある。そのシーズンに越谷の一員となった藤原ACは、年下の安齋HCや町田洋介アソシエイトコーチ(現在は仙台89ERSのAC)との共闘を「それまでもある程度バスケットを理解してるつもりだったんですけど、あの2人を見て『もっと理解しないとダメだな』と思い知らされた」と振り返り、自身のコーチングキャリアにとって大きな意味を持ったことを実感。その中でB1昇格の経験も思い起こし、周囲への感謝の意を表す。
「僕がスカウティング担当だったので下手なこともできなかったんですけど、選手たちがオフェンスでもディフェンスでもしっかり遂行してくれた。選手たちに声かけもしながら、ジェットコースターのように一喜一憂して。いくらコーチ陣が準備しても最後は選手の力なので、あのしんどい中で本当に選手たちが耐えて、最後まで役割を果たしてくれての勝利。試合をやる前から、僕たちコーチ陣の中では勝てるというのがあったんですよ。だから、嬉しかったというよりはホッとしたというほうが大きかったです。あとは、安齋に対して全幅の信頼を預けてたし、ああいう船頭がいてくれてB1昇格ができたんだと思います。ああいうコーチになりたいですね」
藤原ACにとってのプロキャリアの出発地点は、日本初のプロバスケットボールクラブである新潟アルビレックスBB。チームは当時のJBL2部にあたる日本リーグで前シーズンに続くリーグ制覇を成し遂げ、自身も新人王を受賞。JBLスーパーリーグに昇格した翌2002-03シーズンは、自身を含めて10人の日本人選手が在籍していたが、他の9人は全員その後にHC業を経験している。期間限定の代行とはいえ、藤原ACはようやく当時の仲間に追いついたというわけだが、「幸せなことに、『おまえだったらできるから』ってすごく連絡をくれたんです」と彼らにありがたみを感じ、プロの先駆けとしてともに活動したことに誇りを持っている。中でも、自身を新潟に迎え入れた廣瀬昌也HC(当時)の存在は、大きな影響を与えた。
「廣瀬さんは常に本気な方だった。練習中も試合でも自分の想いを正面から伝えてくださって、こっちも言われればイライラもして、何くそと思って『俺やったるわ』みたいなことも言ったりしましたけど、自分の人生よりも僕たちの人生のことを大切にしてくれて、『どうやってこの選手たちを輝かせるか』っていつも考えてくれてました。こっちもその気持ちに応えなきゃって想いに自然とさせられてたし、今は僕も選手たちを輝かせるためにやっていかなきゃいけない。そこは自分の中で大事にしてるところで、廣瀬さんや新潟の先輩たちの存在は常に自分のコーチイズムの中に持ってますね。廣瀬さんは日本のグレッグ・ポポビッチ(NBA歴代最多勝利数の記録を持つ名将)だと思ってるので、プロとしてのスタートが廣瀬さんの下で良かったなと思うし、僕もそう思ってもらえるように、もっともっと真剣に向き合わないといけないと思ってます」
越谷は開幕5試合目、アウェーでの横浜ビー・コルセアーズ戦で初勝利。藤原ACは試合後の会見で「安齋だったらもっと勝たせてるんじゃないか」と率直な想いを口にしつつも、「彼がいなくてもそれを言い訳にはできないし、選手たちも僕を信じてやってくれている」とチームの頑張りを称賛。根が明るい藤原ACも、連敗中は人前で笑顔を見せることがなかなかできずにいたが、この日は「できればずっと笑っていたいですけどね、試合会場でも、家庭でも……あれ、スベっちゃった(笑)」と軽口も飛び出した。
そして10月22日、越谷は活動停止期間の終了に伴い、安齋HCの復帰を発表。藤原ACは従来の職務に戻ることになるが、この3カ月の経験が自身のキャリアにも、越谷というクラブの未来にも良い影響をもたらすことを祈るばかりだ。
文・写真 吉川哲彦