「トップリーグでやろうとは全く思ってなかったです」という男が、気づけば30年目のシーズンを迎えている。
石川県に生まれ育った北卓也は、小・中学生時代には全国大会の経験があったものの、羽咋高校では全国大会に出場はなかった。転機となったのは、当時関東学生リーグ屈指の強豪だった拓殖大学・森下義仁監督からの誘いだった。拓殖大のインカレ優勝に大きく貢献し、MVPも受賞するほどの選手に成長。大学を卒業した1995年、北はJBL・東芝レッドサンダースに進むこととなる。
「そもそも僕はバスケで人生を歩むということは全く考えてなくて。『大学に行くには』っていろいろ考えた中で、最終的に拓大の森下監督が家に来てくれたので決めたというのがあったし、そこで活躍できる自信も全くなかった。4年間バスケをやって石川に帰って、クラブチームかどこかでできればいいかなっていう感じでした。結果が出てトップリーグでプレーしてみたいという欲が出てきて、それで東芝を選びました」
北が東芝を選んだのは「東芝なら試合に出られるかも?」というものだった。JBL1部所属とはいえ、北が入団した当時の東芝は優勝争いには縁がなく、「若くて何もわかっていないから、『自分が入って強くしてやろう』みたいな(笑)」という若いがゆえの野心もあった。
プロリーグがまだ影も形もない実業団リーグの時代。社業との両立が長年の常識でもあり、当時の大学生や高校生に “プロ” という選択肢はないに等しかった。ちょうどこの頃から、外山英明がプロ選手となり、アマチュアの身分ながらバスケットボール専門で入社する “契約選手” という存在も現れようとしていたのだが、バスケットで生活するという概念はまだ浸透しておらず、北にとっては引退後が保証されている社員希望で東芝を選んだ理由の一つだった。
「拓大の1つ上の先輩でチームマネージャーだった岡田さん(裕)が東芝にいて、熱心に誘ってくれました。東芝は社員しか獲らないというのがありましたし、プロになりたいというのは全くなかったです。入社した頃は東芝の金沢支店、富山に北陸支社があって、引退後は地元の方に戻れたらいいなと思っていました(笑)。東芝はバスケを仕事として評価してくれましたし、バスケが成長できる環境も与えてくれていました。選手のキャリアが終わってもしっかり働けるということのほうが大きかったですね」
当時の東芝のバスケ部員の勤務形態は、主に午前勤務で午後練習になり、シーズン終了からチーム活動始動までは終日勤務だったという。北が入社時に配属されたのは生産部の宇宙管理担当。職場には毎日出勤するため、企業の一員としての意識は高まり、それがバスケットに対する向き合い方にも良い影響を及ぼした。
「職場に行くといろんな方と接するので、社会人の常識なんかもそこで叩き込まれますし、企業スポーツの存在意義みたいなものをよく聞かされました。従業員の士気高揚、一体感の醸成、地域貢献、もちろんバスケットボールの普及もありましたが、特に大きかったのが士気高揚で、試合に勝つとみんなが喜んでくれるのを肌で感じましたし、東芝のためにプレーしないといけないということは強く感じていました。目標は日本一だったので、優勝するためにどうするかということを常に考えていました」