新潟は2シーズン目も2部リーグに所属することとなり、日本代表経験者数名は1部であるスーパーリーグのチームに移籍した。そんな台所事情もあったにせよ、晴れてプロとしてのキャリアをスタートさせた青木は、貴重なシックスマンとして出場機会をさらに増やし、チームの日本リーグ連覇に貢献。「それまではいろんなことで会社に守られてたけど、プロになって自分の一挙手一投足にさらに責任を感じるし、逆に言うと自分で責任を取れる環境になった」と、プロの肩書を背負うことで強くなった責任感が良い結果を生んだ。「自分で決めて自分で責任を取れるから、自由になった(笑)」という考え方ができるところは、いかにも青木らしい。
「1年目も悪くなかったし、2年目はプロとしてトレーニングをしっかりできて、取り組み方もだいぶ変わってきた。限られたメンバーでそれぞれが頑張ってるチームだったし、全員が頑張らないと勝てないと思って責任感を持ってバスケットできたのが、自分のパフォーマンスにもつながったのかなと思います。でも、周りから見てどうだったのかはわからないですが、今見たら本当に下手だったなと思う。自分がコーチだったら絶対使わない(笑)。こんなにスキルが足りない奴をよく使ってくれたなと思います」
チームが当時の1部、スーパーリーグに昇格すると再び青木の出場機会は減り、在籍4シーズン目を終えたところで戦力外通告を受ける。30歳になっていた青木は、ワーキングホリデー制度を利用して単身ニュージーランドに渡航。これといった明確な目的があったわけではなく、1年ほど滞在して日本に戻るつもりだったが、父の死去に伴い3カ月で帰国すると、日本バスケット界は古巣の新潟を中心とした新しい動きの真っ只中だった。日本初のプロバスケットボールリーグ、bjリーグの誕生である。青木はすぐに現役復帰を決め、トライアウトを受けて東京アパッチに入団する。その人生は、やはりバスケットを中心に回っていたのだ。
「あそこでかえって来なかったらバスケットには戻ってない。この後どうしようというときにbjリーグができたのは、こういう言い方をしていいのかどうかはわからないけど、父が引き戻してくれたのかなと思います。
アルビもbjリーグも自分が作ったわけじゃないですが、そこに身を置いた選択は間違ってなかったと思います。大和證券の休部の瞬間を見て、新潟でプロチームができるのも見て、bjリーグの開幕戦にスタートで出たのも、自分の選択の恩恵。自分の選択が面白い方向にいってるというのはすごく感じます。他の人にはなかなかできない体験だから、それは今にもつながってると思うし、ビーコルやBリーグの立ち上げを間近で見ることができて、ここにいたいなと思うところに顔を出せてるのは自分でも面白いと思います。決して一流選手じゃなかったし、一流のコーチという過ごし方もしてないですが、ドラスティックに変わる現場に立ち会ってるのはすごくありがたいこと。そこに他の誰かがいるよりは、自分がいたほうが面白い」
その後青木は大分ヒートデビルズと琉球ゴールデンキングスを経て、横浜BCで現役生活を終える。引退時の年齢は39歳。琉球と横浜BCでは、いずれもクラブ創設2シーズン目でのリーグ制覇を味わった。9歳で出会ってから一貫して楽しさを追求し続け、将来の保証も捨ててのめり込んできたバスケットと、ここからはコーチとして向き合っていくことになる。
文 吉川哲彦
写真提供 横浜ビー・コルセアーズ