バブル景気崩壊のあおりを受け、青木が大学生の頃に始まっていた “休廃部ブーム” は、この頃には加速していた。次々とチームが姿を消していく中、青木も「この先何が起こるかわからないまま入社したし、休部になっても他に選択肢がないから、最終的には完全に会社員になるというのが漠然とあった」という。出場機会を増やすべく移籍を考えたこともあったそうだが、試合に出ていない以上はアピールもできず、社員として移籍すれば転職となるため、不況の中ではそれも簡単なことではなかった。
そして、大和證券もその波に飲まれ、1999-2000シーズン限りでの休部が決まる。「流れに身を任せるしかないかな」と思っていた青木はこのとき5シーズン目、27歳になっていた。
しかし、青木の人生でおそらく最も大きいであろう転機がここで訪れる。大和證券がチームを譲渡し、日本初のプロバスケットボールクラブとして活動することになったのだ。もちろん、社員である青木には会社に残る選択肢もあったのだが、青木にとってベストの選択肢も用意されていた。社員選手に対し、譲渡先の新クラブ・新潟アルビレックス(チーム名は当時)に1年限定で出向を認めるというものだ。周囲の社員選手は1人が他の企業チームに移籍し、他は社業に専念する道を選んだが、青木はすぐに出向を決断した。
「先輩たちはずっと選手として一流でやってきて、これで一区切りつけてここからは会社員としてっていう選択だったと思うけど、自分はまだバスケットでは何もしてない。出向してしまったら、会社に戻ったときの保証もなく、リスクはあるんだろうなと思ったんですが、こんなチャンスなかなかないから行くしかないだろうと思って、誰かに相談することもほとんどせずに決めました」
新潟が所属したのは当時の2部にあたる日本リーグだったが、日本代表経験者が複数いたこともあり、出場機会は増えたとはいえ主力級の扱いを受けたわけではなかった。しかし、コートに立てる喜びを改めて知った青木は大和證券を退職し、プロ転向に舵を切る。人生を変える大きな決断であることは言うまでもなかったが、ここでも青木に迷いはなく、自身の欲求に素直に従った。
「大和證券も魅力ある会社で、ここでちゃんと勉強するのも一つの生き方だなとは思ったけども、プロ選手って簡単になれるものじゃないし、実際に出向で1年やってみて、やっぱりもうちょっとバスケットを続けたかった。2月中に決めないといけなくて、そこで退職届を出しました。来シーズンの年俸が大和證券の給料より下がるのは確定していたし、その後の契約の保証もなかったけど、そのときもあまり人に相談はしませんでした。母親はだいぶ前に他界してたし、父親も病気だったから、兄に『会社辞めるから』って言ったくらいかな」