── 当時の1年生は伊藤達哉(名古屋ダイヤモンドドルフィンズ)、中山拓哉(秋田ノーザンハピネッツ)、三ツ井利也(信州ブレイブウォリアーズ)、関野剛平(北海道)、大矢孝太朗(新潟アルビレックスBB)、鈴木隆史(元・JR東日本秋田)など、個性豊かで負けん気の強い選手がそろっていた印象があります。
寺園 そうなんですよ。僕たちの代は飛び抜けたスーパースターはいなかったけど、その分みんなで考えて、切磋琢磨して成長していけた代だと思っています。インカレは1年生のとき優勝してから2年連続決勝で敗れたので、自分たちの代が4年で迎える年ではそれぞれのいいところを発揮して絶対優勝しようとみんなで話し合っていました。だから、本番直前の練習で達哉が手を骨折しちゃったときはほんとにめちゃくちゃショックでした。チームにとって達哉が抜けることはものすごく大きな痛手でしたが、それより何より最後のインカレに出られない達哉の気持ちを考えたら、もう、なんて声をかけていいかわかんなかったです。あいつの分も頑張るって気持ちで決勝に臨んだけど、結局優勝には手が届かず。言葉に表せないほど悔しかったですね。ただ、最後までみんなで頑張れた1年間は本当に楽しかった。4年間で一番充実した時間だったなあって思います。同期の活躍は今も自分の励みになっていて、みんなのスタッツは毎試合確認してるんですよ。
大学卒業後、1年目で迎えた人生のターニングポイント
── 高校のときもそうですが、大学でも最初はほとんどコートに立てなかった寺園さんが最後はキャプテンとしてチームを牽引しました。それだけにちょっと意外だったのは、卒業後プロではなく実業団(九州電力)に入る道を選んだことです。
寺園 よくみんなから驚かれるんですが、こう見えて僕は4人兄弟の長男なんですよ。で、あのときは『自分は長男だから』という気持ちがあったんですね。自分は中学から家を離れて自由に好きなバスケットをやらせてもらったわけじゃないですか。周りからも「長男なんだし、そろそろ親元に帰ったら」と言われて、自分もそうだよなあと思ったんです。プロじゃなくてもバスケは続けられるわけだし、それならなるべく実家の近くで親孝行するのがいいんじゃないかと考えました。
── ところが、1年でプロの道へ。どんな心境の変化があったのですか。
寺園 さっき「プロじゃなくてもバスケは続けられるわけだし」と言ったこと自体は間違いではないんですが、やはり仕事をしながらバスケをやるということが本当の意味でわかっていませんでした。仕事をしている以上、部署によっては残業もあるし、練習時間に全員がそろわないこともある。あたりまえのことです。けど、頭では「あたりまえだ」とわかっているその環境に僕は満足できませんでした。自分はやっぱり100%でバスケがやりたいんだってことに気づいたんです。ならばプロの世界に行くしかない。厳しくてもプロの道に行こうって決心しました。考えていた “親孝行” は1年で終了しちゃいましたけど、自分の気持ちを両親に話したら「まあ、そうなると思ってたわ」と言われました(笑)
── 不安はなかったですか。
寺園 不安よりもこれでスタートラインに立てたっていう喜びの方が大きかったです。わくわくしましたね。わくわくしっぱなしでした(笑)
後編「結果が出ないときも絶対に下を向かない」へ続く
文 松原貴実
写真 B.LEAGUE