竹田謙がバスケットを始めたのは、中学入学というタイミングだった。家族に部活の話をする姉を見て「楽しそうだなと思って、他の選択肢はなかった」とのこと。川崎市の大会にも出られないレベルではあったが、高いレベルでバスケットに打ち込みたいと思った竹田は、東京都で常に上位に進出し、全国大会にも顔を出していた國學院大學久我山高へ進学する。
竹田が入学した年の國學院久我山は、後に日本代表でもプレーする石坂秀一と、大学以降も竹田とチームメートになる岩本真史を擁してウインターカップ準優勝という成績を収めている。「ヤバかったです(笑)」と振り返るほど、想像以上にレベルの高い環境に身を投じてしまったが、逆にそれが竹田の心に火をつけ、さらに高いレベルを求めて青山学院大学に進む。それも、竹田の元には他の関東学生リーグ1部の大学から誘いが届いていたにもかかわらず、青山学院大に入るためにそれを断って一般受験で進学したのであった。
当時の青山学院大といえば、2部から1部への復帰を果たし、右肩上がりに強くなっていった時期。同期の2人と1学年下の5人はその後、8チームしかなかった国内トップリーグのJBLスーパーリーグに進んでいる。そんな層の厚い中で、当然のようにチーム内での競争は厳しかったのだが、竹田にはキツい練習も「楽しかったことしか覚えてないんですよ。みんな上手いから、そこでやるのが楽しくて。頑張ってついていって、それで自分も上手くなれたと思うし」と言えるメンタリティーがあった。いつも竹田をもう1つ上のステージに押し上げ続けたのは、高い向上心だけではなく、そのメンタリティーだ。
4年時には青山学院大に初のインカレ優勝をもたらした。層の厚い中でも、飛び抜けた身体能力を武器にベンチスタートながら主力の座を勝ち取った竹田には、国内トップでプレーするだけの自信も備わってきていたが、4年生に進級して早々に内定していた東京海上に入社し、2部にあたる日本リーグでプレーすることになる。
「どうしてもスーパーリーグでやりたいとは思ってなかったかな。周りはたくさんスーパーリーグに行ったけど、人と自分は違うし、東京海上に入れたのは嬉しかった。日本リーグでそれなりに強くて、外国籍選手もいて、それはそれで楽しそうだなと思ったんですよ。入社したら外国籍選手がいなくなって、社員だけでやることになったのは残念でしたけどね」
しかし、社員として営業で外回りに奔走する中、チーム練習は週1回だけ。それも、チームの全員が集まって練習できるわけではなかった。一方で、拓殖大からトヨタ自動車(現・アルバルク東京)に進んだ渡邉拓馬(現・京都ハンナリーズGM)を筆頭に、同期生たちはスーパーリーグで活躍。案の定、竹田はまたもスイッチが入る。1年目が終わろうとしていた2002年3月、竹田は日本リーグで対戦した新潟アルビレックスのトライアウトを受けたのだ。安定した収入を投げうつことにもちろん周囲は反対したが、本人の気持ちは既にプロに向かっていた。
大学進学の際も「青学は大学自体もバスケ部の雰囲気も良いし、高校の2つ先輩の岩本さんもいるし、強くて楽しそうだなって。先のことなんて考えてないですよ」と重く考えずに決めた竹田は、プロ転向に際してもただバスケットを楽しむことを追求しただけだった。