その後進学したブリュースター・アカデミーで、ジョージア工科大学で、そして大学在学中に召集された日本代表でも、シェーファーはその素質を大いに買われることとなった。
「すごくいろんな人に教えてもらって期待してもらって、それに報いなきゃな、という思いが強くて、そのために頑張りました。」
そして2021年。
バスケットを始めた7年後に、いくつもの階段を飛び越えたシェーファーはオリンピアンとなった。
誰もが羨む才能を持ち、周囲の善意によって驚異的なスピードで育て上げられた強運の持ち主。
そう感じる読者も少なからずいるのではないだろうか。
だがおそらくそうではない。
もちろんいくつかの運命的な出会いが彼を大きく変えたことは間違いないが、その幸運を最大化したのはシェーファー自身だった。
それが端的に現れているのが、ジョージア工科大学在学中の決断だ。
NBA選手も輩出し、NCAAディヴィジョン1に所属するハイレベルな大学を1年半で去り、アルバルク東京に入団した。
「オリンピックの存在が一番大きかったんです。オリンピックに出たいという気持ちが本当に強くて、それまでの期間で自分をどれだけ高められるかを逆算して考えていて、そのときそのときで自分にとって一番いい場所を探していました。もちろん15年後とかを考えたらジョージアテックにいて4年間プレーしてた方が良かったかもしれないんですけど、それはもうそれとして、オリンピックに出るために自分にとってより良い環境を取りました。ジョージアテックの一年目は本当に一切試合に出れなくて、その一年間とその後、代表で活動した夏の三ヶ月間を比べたら、夏の期間の方が成長している感覚があったんです。二年目は試合に出るはずだったんですが、トランスファーですごい選手が入ってきてしまって、僕のスポットを完全に奪ってしまった。その選手がいる間は自分が試合に出られるかわからない状況になってしまいました。オリンピックに出るためにも、この一、二年はすごく大事だと感じたので日本に帰ってくることを決めました。」
ゴール地点を明確に設定し、現在地からのロードマップを作成する。
数ある選択肢の中で、最も成長できる環境に自らを置く。
イレギュラーが起これば即座に対策を講じる。
こうして目標までの最短距離をシェーファーは走り抜けた。
日本に戻ってきてからも、それが変わることはなかった。
アルバルクに在籍していれば日本のチャンピオンチームとしての栄光を手にすることだって叶わぬ夢ではなかったが、その道は選ばなかった。
「アルバルクで全く試合に出れていなくて、その分、代表で試合に出させてもらって経験を積んでいたレベルでした。代表での一試合一試合ですごく成長できている感覚があったので、やっぱり試合に出ないとダメだなっていうのがあって。決めるまでにはすごく時間がかかったんですけど、ルカ(パヴィチェヴィッチ)ともいろんな話をして、ショーン(デニス、現・名古屋ダイヤモンドドルフィンズHC)とも話をして、短期間でどれだけ成長できるかを考えたときに、やっぱり滋賀の方がいいなと思って東京を出ました。」