能力の輪(前編)より続く
藤田弘輝はハワイの大学を卒業し、日本でプロバスケットボール選手となった。
だが思い描いたプロの生き方とはかけ離れた現実がそこにはあった。
大阪で暮らせば誰もが「おもろいヤツ」になれるわけではないのと同様に、アメリカの空気を吸ったからといってバスケットが抜群に上手くなるわけではない。
彼の努力は並大抵ではなかったが、残念ながら大きな成果につながることはなかった。
「プロになってからも日本人選手のスピードとか左右の動きの違いを感じました。みんな前からフットワークでガンガン当たってやれるじゃないですか。僕はそれが全然できなくて。本当に能力がなかったんだと思います。
扱いも選手兼通訳が多くて、中途半端な立場でした。もっと練習したいのにコーチの通訳をずっとやっていたりして、それがやっぱりしんどかったです。『あぁ、なにしてんだろうな』と思い始めてしまって、時間がもったいなく感じてしまったんです。このまま名前だけのプロ選手をやっていてもしょうがない。もう一回バスケット人生を再出発したい、と思って大学時代から頭の片隅にあったコーチになることを決意しました。」
自分の適性を厳密に見定めた藤田は、選手として、そして通訳としてチームに携わりながらコーチの知識を深めていく。
「選手を続けながらも、マインド的にはだんだんとコーチのものになっていきました。コーチ目線でバスケットを見るようにしてみたり、自分のチームのコーチングを意識して見るようになりました。ノートも取り始めるようになっていきましたね。
戦術的なところは映像を見まくって勉強しました。若いころはNBAをよく見ていましたが、最近ではヨーロッパしか見ないです。あと、コーチングに関してはやっぱりコーチK(マイク・シャシェフスキー、デューク大学ヘッドコーチ)とか、ボブ・ナイトさんのフィロソフィーの本を読みあさったりとか、そういうふうにしていました。」
そんな藤田に、大きな転機が訪れる。
選手を引退し、初めてアシスタントコーチとしての役割を得たシーズン途中で、ヘッドコーチが突然解雇された。
後任に指名されたのは、まだアシスタントコーチとしての経験がわずかばかりしかない藤田だった。
この起用は異例ともいえるだろう。だが現在の実績を考えれば、チームがすでに彼の持つポテンシャルを見極めていた可能性もあったのではないか。
「と、言いたいところですけどね。僕にはなにかがあったから抜擢されたんですよ、って。かっこいいから言いたいところです。でもおそらくはコーチにかける人件費にあまり余裕がなかったんだと思います。今のBリーグではありえないですけど、当時のbjリーグはまだそういう環境でした。そのとき僕はアシスタントコーチ兼通訳で、ヘッドコーチと二人三脚でやっていました。でもなかなか成績が伴わなくて、ある土曜日の試合の後にヘッドコーチがカットされたんです。会社からは『明日の試合からヘッドコーチやってください』と言われて、『えぇー』って感じでした。それで日曜日の試合でデビューしました。無謀でしたね、当時を振り返ると。」