晴れて地元でプロとなった佐藤だが、チームに加わるとレベルの高さを痛感した。日本人選手の約半数が他チームに移籍したが、長谷川誠や藤原隆充、小菅直人らは残留。何より、練習のハードさに佐藤は驚いた。
「それまでは『俺は新潟で一番だ』という気持ちでやっていて、自信に満ちあふれていたんですよ。実際に入団できることになって、『だろうな』って(笑)。でも、合流初日の練習で一瞬で心折られましたね。オフェンスは何もできないし、ディフェンスも全く守れないし、スクリーンには簡単に引っかかる。練習自体めちゃめちゃキツくて、体のぶつかり合いもすごかった。『こんなところでやっていけるのか』と、もう衝撃でした」
とはいえ、せっかくたどり着いたプロの舞台。負けん気の強い佐藤は奮起し、必死についていった。そして、そんなレベルの高い先輩たちの面倒見の良さも大きな助けとなった。
「先輩方のフォローがありがたかったですね。練習ではケチョンケチョンにされても(笑)、終わった後に『よし、メシ行くぞ』ってよく連れていってもらいました。そこでまた大説教で下手クソだの何だの言われるんですが(笑)、先輩方からいただいたアドバイスのおかげというのはその後ずっと根底にありました。レベルが高いからこそ活躍したいという気持ちも出てきましたし、見返してやるという気持ちもありましたね」
その結果、佐藤はルーキーイヤーに1試合平均17.3分の出場時間を与えられ、欠場もわずか1試合。開幕早々にはアゴを骨折するアクシデントに見舞われながら、フェイスガードを着用して試合に出場し続けた。本人は「僕、努力はしてないと思うんです。先生方やコーチに恵まれたんですよ」と謙遜するが、「言われたことは100%以上やりました。与えられた試練は絶対に乗り越えてやろうと思っていましたから。やり続けることはできたと思いますし、意志は強いと思いますね」というその言葉からは、プロアスリートに必要なメンタリティーを持ち合わせていたことがよくわかる。
前述したように、佐藤はその後2度にわたって新潟を離れている。1度目はbjリーグが導入していたFA制度を利用したもので、プロ3シーズン目を終えたオフに大分ヒートデビルズに移籍。出場時間が年々減っていたことで、「やっぱりプレータイムが欲しかったし、大分には求められていた。新潟に戻るなんて1ミリも思っていなかったです」と選手としての成長を期した、覚悟の移籍だった。
2度目はBリーグ元年を終えた後、B1昇格を決めたばかりの島根スサノオマジックへの移籍。これもまた、「島根のほうが僕を求めてくれていた。プロの世界、求められているほうがやりがいがある」という理由での決断だった。