前編:『期待のちびっ子スイマー』から『熱血バスケ少年』へ より続く
学生代表メンバーに選出されたことが人生を変えた
慣れ親しんだ神戸から福井の中学に転校し、あこがれの北陸高校に進んだこと。推薦入学するはずだった関西の大学の話が白紙に戻り、思いもよらなかった東海大への進学を決めたこと。振り返ればこれまでのバスケット人生にはいくつもの分岐点があった。その中で藤永が今でも「自分にとって一番大きなターニングポイントだった」と思うのは、大学4年次に日韓の大学生が対戦する李相佰盃の代表メンバーに選出されたことだという。
「教師になってバスケットの指導にあたる道、実業団に入って仕事をしながらバスケットを続ける道、プロとして挑戦する道、進路についてはいろいろ迷いがありました。そこで自分で決めたのは、もし自分が学生代表チームのメンバーに選ばれることがあったらプロを目指そうということです。代表チームの監督だった池内さん(泰明・拓殖大監督)から『おまえみたいな選手が必要だ』と言ってもらったとき、本当にそのとき、プロの道に進もうと心を決めました」
『おまえみたいな選手が必要だ』と言ってくれたのは池内監督だけではない。アースフレンズ東京Z(当時NBDL)の小野秀二ヘッドコーチもまた早くから藤永に熱心なラブコールを送っていたと聞く。現役時代は日本を代表するポイントガードとして知られ、ディフェンスに重きを置く小野HCの下でプレーしてみたいという気持ちに加え、渡邉拓馬、山田哲也という「僕にとっては神様みたいなベテラン」が在籍していたことも入団の決め手となった。
「おかげで希望をもってルーキーシーズンのスタートを切ることができました。アースフレンズにいたのは1シーズンだけなんですけど、成長させてもらった1年だったなあと思います。毎試合30分を超えるプレータイムをもらって、ルーキーながら自分がこのチームを牽引するんだという責任を感じました。プロとしてコートに立つ責任感は自分の財産になったと思います」
毎年階段を上っているという手応え
Bリーグが開幕した翌年、藤永は名古屋ダイヤモンドドルフィンズに移籍しB1の舞台に立つ。その2年後の2018-19シーズンにはB1の強豪千葉ジェッツへ移籍。
「言い方はおかしいかもしれませんが、名古屋の梶山さん(信吾GM、当時HC)から電話をもらったときも千葉の大野さん(篤史HC)から電話をもらったときも、ああ自分を見ていてくれる人がいたんだなあと思って、それがものすごくうれしかったです」
その喜びを別の言葉に言い換えれば『一歩ずつ階段を上っている』という手応えだったかもしれない。入団した千葉にはすでに富樫勇樹、西村文男という “揺るぎないポイントガード” が存在したが、3番目の立ち位置に頓着する気持ちはなかった。むしろ実力的にまだまだと感じることで、「とにかく1年目は学びながら自分のスタイルを確立していこうと考えていた」という。勝負は2年目。「そこで絡めないようではダメだと自分に言い聞かせて臨んだシーズンだったと思います」
そして、本人が言う『勝負の2年目』はケガの西村に変わって2番手を任され、持ち味の激しいディフェンスで貢献。12連勝の高揚感も味わった。