終盤戦に差しかかるとポストシーズンの枠をめぐる争いが熱を帯びるのは、当然のことながらどのシーズンも当たり前に見られる光景だ。だが、終盤戦に差しかかるということは、その一方で寂しい知らせが舞い込んでくる時期ということでもある。2021-22シーズンも例に漏れず、所属選手の引退を発表するクラブがいくつかあった。その1つがバンビシャス奈良。B2のレギュラーシーズンが残り約1カ月となった3月28日に、種市幸祐が12シーズンに及ぶ現役生活に幕を下ろすことを発表している。はたして種市のバスケットボール人生はどのようなものだったのか。
種市が生まれ育ったのは静岡県下田市。生まれた当時の人口は約3万人と決して大きな町ではなく、ミニバスチームもなかったため、種市がバスケットを始めたのは進学した下田東中学校からだった。それも自ら積極的にというよりは、限られた選択肢から選んだものだった。
「田舎の中学校だったので、バスケ部とソフトテニス部とバレー部しかなかったんですよ。小学生のときに陸上をやっていたんですが、そこで仲の良かった先輩がバスケ部にいて、身長も高かったので誘ってくれたのがきっかけです。バスケにはそんなに興味なかったんですが、何か部活はやらなきゃと思って」
それでも、昼休みなど空いた時間を見つけては仲間と1対1に興じるようになり、種市はバスケットにのめり込んだ。その頃はもちろん日本にはプロリーグがなく、種市自身もバスケット全般の知識はほとんどない。この時点で、将来自身がプロバスケットボール選手になるということは全く想像もしていなかった。とにかく、自分が出会ったスポーツに夢中になり、ひたすらボールを追いかける日々だった。
“好きこそものの上手なれ” とはよく言ったもので、急速に実力をつけた種市は下田東中を県3位まで押し上げる。県内の強豪高校が放っておくはずもなく、種市は沼津市にある飛龍高校へ進学。実家を離れ、当時の杉村敏英コーチの家に下宿する形で先輩たちとの共同生活をスタートさせた。朝5時半に起床して朝食を作り、部活が終わって帰るのは夜10時というキツい毎日に「『帰りたい』と親に相談したこともある」というが、その生活で得たものも大きかったと種市は振り返る。
「規律が厳しいというかしっかりしていたので、それはすごくためになりましたね。また、先生からは折茂(武彦、当時トヨタ自動車)さんと後藤(正規、当時アイシン)さんの映像を何回も見せられました。それで勉強して、自分のプレーにも生かせたと思います」
その結果、2004年のウインターカップでは、3回戦で敗退したものの種市は3試合で実に107得点を叩き出し、2年生にして大会得点王となっている。
ただ、この頃から種市はケガとの闘いも強いられた。キャプテンとなった3年次のインターハイにも出場したが、自身は欠場。ウインターカップも出場時間は10分に満たず、1回戦敗退を喫している。その後進んだ日本大でも、リーグ戦優勝などに貢献している一方で、ケガで戦列を離れた時期もあった。
そんな中でも、種市は大学3年の頃からプロを意識し始める。大学4年次のオールジャパン(天皇杯)では当時レラカムイ北海道と対戦し、スイッチディフェンスでほんのわずかな時間ながら折茂とマッチアップもした。「ビデオで何回も見たんですけど、その人と対戦できたのもすごいことだし、生で見ると折茂さんの上手さが改めてよくわかりましたね」という種市は、その後チームメートになることなどこの時点ではもちろん想像もしていない。