北陸学院高校で『考えるバスケ』を学んだ
当時まだ20代だった濱屋史篤監督が率いる北陸学院は『考えるバスケット』に重きを置いていた。大倉によると「濱屋コーチはああやれ、こうやれとは言わないコーチ」であり、その分「相手がこうきたらこうしたらいいんじゃないかとか、そこを自分で考えてやらなきゃダメだよみたいなことをよく言われた」という。それはこれまで高い身体能力と人一倍の負けん気を武器に戦ってきた大倉のバスケットを徐々に変えていく。試合の流れを読み、もっとも効率の良いプレーを考える力。1年で先発メンバーとなり、2年次に残したインターハイベスト8、国体準優勝、ウインターカップベスト4の記録は、大倉の確かな成長の記録でもあった。創部4年目にして北陸学院の名は全国に知れ渡り、同時にエースとして躍動した大倉の存在も大きくクローズアップされることになる。その中でも高校時代の大倉を語る上で外せないのは国体出場をかけて戦った3年次の北信越予選の決勝戦だろう。対戦相手は帝京長岡と開志国際の選抜メンバーを主体とした新潟。試合前の下馬評は “新潟有利” が大半を占めており、大倉自身も「正直、勝利は難しいと思っていた」という。
「石川代表というプライドを持って戦おうという気持ちはもちろんありましたが、戦力的にはかなり差があると感じていました。『負けるとしても15点以内だったら俺たちの勝ちだと思おうぜ』と、言ってたぐらいです」。ところが、始まった試合は予想外の大接戦となる。なにしろドライブ、ミドル、3ポイントと、大倉のシュートがおもしろいように決まるのだ。80-83とリードされて迎えた4Q残り6.5秒、同点に追いつく起死回生の3ポイントシュートを沈めたのも大倉だった。勢いに乗る石川はそのまま93-90で延長戦を制し、8本の3ポイントシュートを含み59得点をマークした大倉は文字どおり『下馬評を覆す勝利の立役者』となった、が、本人によると「自分は『俺が決めるからボールを寄こせ』というタイプではないので、あの試合もチャンスがあったら打っていくという感じでした」という。なんと、それは意外だった。子ども時代のやんちゃな話を聞いていたせいか、それともコート上の大倉があまりにも堂々たるエースだったせいか、てっきり『俺にボールを寄こせ』タイプの自信家なのかと思っていた。だが、目の前の大倉は「違いますよ。全然自信家なんかじゃありません」と笑う。なるほど、考えてみれば『自信を持つ』ということと『自信家』は似ているようで違う。「俺が決めてやる」と思うことを「セルフィッシュ」とは言わない。
「そうですね」と同意してくれたのは1番近くで弟を見てきた龍之介だ。「あいつは一見我がままで生意気そうに見えますが、バスケットに対しては少し違うような気がします。自分が決めたら何があっても突き進むみたいなところがあって、子どものころはしょっちゅうケンカしてたんですけど、今ではそれがバスケット選手としての武器でもあるのかなあと思うようになりました。自信家ではないけど信念はあるというか、逆境に強いメンタルがあるというか。ずっとあいつを見てきて、それがあってこそ颯太なんだとわかってきたんです。自分にはないものを持っている颯太が時々羨ましくなります」。
自信家ではないが信念はある。1度決めたことは何があっても貫く強さがある。言われてみれば腑に落ちる。兄が語った大倉颯太は確かに東海大のコートにいた。
中編:ハドルを組んで指示を出す1年生 へ続く
文 松原貴実
写真 B.LEAGUE、吉田宗彦