「まさに心配だらけですよね(笑)。でも、そのときは誰も僕のことを知らない場所でバスケットをしたいという気持ちが強かったんです。それはあのころの自分の立ち位置や評価のされ方も関係していると思います。高校3年間バスケをやっている中で、勝てば『角野はすごかった』と言われ、負ければ『角野はすごかったのに』と言われました。僕は父親から『勝ったら周りのみんなのおかげ、負けたら自分の力不足』という考えをずっと教えられて育ったんですね。だから、さっきのような周りの評価がすごく嫌でした。なので、このまま日本の大学に進んだら、また同じような評価を受けるんじゃないかと思ったんです。だったら厳しい環境になるかもしれないけど、誰も自分のことを知らない場所、フラットに自分を評価してくれる環境でバスケットをやりたいと思いました」
留学先にアメリカを選んだのは「やっぱりバスケットの最高峰であるNBAがある国だから」だという。角野がNBAにハマったのは小学5年生のころ。子ども心に「バスケットを続けるならいつか自分もこの舞台に立ってみたい」と思った。やる以上はトップを目指したい。決心したアメリカ留学はその夢の延長線上にあった。
「だけど、アメリカの大学に進学することがイコールNBAではないし、そもそもどういう形で進学したらいいのかもわかっていませんでした。そのとき相談したのがアメリカにいた(渡邊)雄太さんです。雄太さんが通ったプレップスクール(セント・トーマスモアスクール)の関係者がちょうど日本人でおもしろい高校生はいないか?と言っていたらしく、それを聞いた雄太さんが僕の話をしてくれたんですね。そのおかげで入学が決まってアメリカへの一歩を踏み出すことができました」
入学してすぐに痛感したのは「集まった選手たちが負けず嫌いの究極の形」だったこと。「日本みたいに先輩に気を遣うとか、後輩を気にかけるとか、そういうのは一切なし。自分をアピールするためにはなんでもやる世界でした。最初は少し面食らいましたね。けど、厳しい世界で生き残るためには見習わなくちゃいけないことも多いというか、見習わなくちゃやっていけないというか、少しずつ自分の意識も変わっていったと思います」
コーチから「おまえはいいシュートを打つ」と褒められたときも「自分はキャッチ&シュートだけの選手にはなりたくないんです」と、自分が目指す方向をしっかり伝えられるようになった。人一倍練習する姿勢は変わらず、それなりの手応えも感じていたという。
後編で詳しく触れるが、NCAA(全米大学体育協会)の傘下にあるバスケットボールはディビジョン1~3に分けられ、1以外のクラスの選手がNBA入りする可能性は極めて低い。角野が目指していたのは当然ディビジョン1の大学だが、プレップスクールが終わりに近づいてもオファーが届くことはなかった。声をかけてくれたのはディビジョン2のサザンニューハンプシャー大学のみ。「NBAに続く扉がガチャンと音を立てて閉まるのを感じた」という。自分は何をしにアメリカまで来たんだろう。結局自分は身の程知らずの井の中の蛙に過ぎなかったのか。そんな思いばかりがぐるぐる頭を駆け巡った。「だけど、やっぱりここであきらめたくない。アメリカでバスケットを続ける意味を見つけたいと思いました」。選択したのはサザンニューハンプシャー大学への進学。角野にとって本当の意味で “試される4年間” はそこから始まる。
されど空は青(後編)折れそうになる心を支えてくれたもの へ続く
文 松原貴実
写真 B.LEAGUE