最初に受けたショックは「ポイントガードとして育てたい」と言ってくれた塚本コーチがチームを去ると知ったことだ。信頼し頼りに思っていたコーチが突然いなくなってしまった心細さ。「自分のポイントガードへの挑戦はどうなってしまうのだろうと思いました。新しいコーチが自分をポイントガードにしようと考えてくれるとは限りません。そもそも明治には3年の會田さん(圭佑・京都ハンナリーズ)、2年の齋藤さん(拓実・名古屋ダイヤモンドドルフィンズ)、吉川さん(治耀・さいたまブロンコス)といった有力なポイントガードがそろっていて、自分とのレベルの差は歴然でした。プロになるのはこういう選手なんだなと思ったら、なんていうんでしょうね、目指していたプロの道が遠くなるというか、夢が萎んでいくというか…」。いわばそれが2つ目のショック。あんなに張り切っていた自分の心にうっすらとあきらめムードが漂うのを感じた。それ以降もなかなか指揮官が定まらないチームの中で、選手たちで話し合い、練習メニューを考え、試合に向かう日々が続く。「こんなはずではなかった」という思いが胸をかすめたとしても無理はないだろう。「けど、腐ることはなかったです」。ここで綱井が選択したのは『有力な先輩たちからひたすら学ぶ』こと。先輩ガードたちとマッチアップすることで足りないものを探り、通用するものを確認し、徐々にポイントガードとしての基礎を身につけていった。
「初めてコートに立ったのは2年生の春のトーナメントです。そのときは會田さんと齋藤さんがコンボガードをやっていて、僕は3番ポジション。3年生からやっとコンボガードとして出ましたが、どちらかというと2番ポジション寄りでした。メインのポイントガードとしてひとり立ちしたのは4年生になってからですね」。入学した当初はピック&ロールがどんなものかもよくわからなかった自分がチームをけん引する立場となり、練習ではコーチ的な役割も担う。「下級生たちを注意するのは性格上もっとも苦手なことでしたが、その都度やるべきことはやると自分を奮い立たせて取り組んできました。コーチに指導された記憶があまりないので選手としてどれくらい成長できたかはわかりませんが、少なくとも人としては成長できたんじゃないかなと。そういう意味では大変だったけど充実した4年間だったなと思っています」。最後のインカレをベスト8で終えたとき、一度は消えかかった「プロ選手になる」という決意は確固たるものになっていた。「自分が進む道はそれしかないと思いました。もう100%全力でそう思っていました(笑)」