石崎 なんかぼんやりとさ、想像するわけよ。親として、子供に向き合う時間が人間的にどういう成長をもたらすか、みたいなのを。そーゆー実感みたいなのはもう結構さ、息子が小学校入って結構なわけじゃん9歳とか10歳とか。
竹内 小4いま。
石崎 そんくらいの子供を育てた一人の親として、じゃあ自分が子供がいなかったときのことを想像するのは難しいかもしれないけど、自分にとって良かったなって思えるなんかはあったりすんの?
竹内 ホント月並みやねんけど、俺らってやっぱなにか新しいことができるっていう…今の石崎は畑をちょっと変えたわけやから、新しい発見だったり新鮮なことだったり、新しい技術を習得したいってのがどんどん出てくるやろうけど、実際もう俺の場合ってもうそんな出てこないわけやん。
石崎 うん。
竹内 だけどやっぱその、自分の子供たちっていうのはどんどん出来てきて。「あ、自転車乗れるようになってるやん」とかそういうのを、ほんまに月並みやねんけど自分に置き換えて考えちゃうから。そういうのは些細な楽しみでもあるし、あとは逆に自分と似てる部分に対しても、なんやろ、まあだからその、俺部屋汚いやんか?
石崎 はい。
竹内 で、まあ息子も汚いのよ。そーゆーのみて微笑ましくなったりするわけさ。
石崎 血筋やなーって?
竹内 なんかそーゆーのとか。でもその一方でさ、自分と似てない部分とかあったりするわけさ。引越ししてさ、東京での最終日とかお別れ会みたいなんしてくれてん、学校で。そんで最終日行ってんや、先生方に挨拶しにさ。そしたらなんかめっちゃ泣いてるんやんか、息子が。ちょっと俺と真反対やん、そういうの。そういうの見たりして、違う一面とかも見れたりすると、自分が思ってた子供の像と予想しないこととかも起きたりするわけさ。大体のことはわかってるつもりやし、合ってるんやけど、そういう全く違う面とかを見れたりしたときに、なんか自分自身考えさせられるもんがある。言葉では言い表しづらいけど、自分が思ってた面とは違う一面を見たときに、なんかいろいろ自分の中では考えちゃうかな。
石崎 考えちゃう…?
竹内 なにを考えちゃうかっていうとちょっと、抽象的すぎんねんけど、あー、なんか、知らんところでこういうふうに成長してるんや、とか、どうなってこういう感受性豊かになったんやろう、とか、なんかそういう感じ。
石崎 おんなじDNAが入ってるはずなのにって。
竹内 全く自分と真反対。友達つくんのもめっちゃうまいし。
石崎 へー。でも譲次は友達つくんのうまい方じゃないの?
竹内 と、思うやん。結構そんなことないよ。
(両者失笑)
石崎 表情。
竹内 どんなツラしてた、俺?
石崎 すごいなんか、いじめられっ子の顔してた。
竹内 (笑)
好ましい親と子の在り方がどのようなものなのか、僕にはわからない。
子供を持つ幸せを訴える人々がいる一方で、それに苦しんでしまう人がいることも確かだ。
だが竹内譲次は子を育てる過程において、少なからず豊かさを手にしたのではないだろうか。
血を分けた生命の中に自分を見、自分以外を見る。
その営みに付随する喜びや葛藤を表面的な言葉で片付けてしまうのではなく、深く潜り、向き合おうとしていた。
譲次が語ってくれた言葉になぜか自分が嬉しくなって、これからもいい家族であり続けてほしいと願った。
文 石崎巧
写真 B.LEAGUE