「日本のことを何も知らずに海外に出てしまいました。それはバスケだけではなく、社会的なこと全般についてもそうです。英語の授業で政治の話になったときに、一番不甲斐なさや恥ずかしさを感じたことは今でも覚えています。そこで他国の留学生と政治の話題になり、僕は日本のことについて質問をされても何も答えられませんでした。他の人たちは母国のことをなんでも知っていましたし、感受性あふれた表現力やアピールするポイントが素晴らしかったです。それをバスケに置き換えたときに、日本の状況を何も知らない中で、スラムダンクのワンシーンではないですが『アメリカの空気を吸うだけで高く飛べる』と調子に乗っていたことが、若かりし頃はありましたね」
チャンピオンチームであり、NBA選手となった日本人第一人者の田臥勇太を擁するブレックスで日本バスケの王道を学んだ。親身になって教えてくれたのは、当時アシスタントコーチだった水野宏太コーチ(現・アルバルク東京 トップアシスタントコーチ)である。
「プロとして1年目のときは右も左も全く分かってなかったです。当時、宏太さんにはたくさん指導していただき、それが今のコーチングにすごく生きています。その後、岩手でもいろんな経験をさせてもらいましたが、初心に戻ると栃木での宏太さんや当時の選手たちの協力を得ながらコーチの勉強をしたからこそ、この仕事を今もさせてもらっていると感じています」
たった1年間ではあったが、ブレックスでは多くのことを学ぶことができた。その後、岩手でアシスタントコーチとなり、バスケ小僧がそれを生業として人生を歩みはじめる。
33歳でめぐってきたヘッドコーチの座
大阪エヴェッサで2シーズン、アシスタントコーチを務めたあと、岩手時代から仕えてきた桶谷大ヘッドコーチ(現・琉球ゴールデンキングス ヘッドコーチ)の後任として、穂坂コーチに白羽の矢が立つ。2018-19シーズン、33歳のとき、早くもヘッドコーチとしてB1で指揮を執るチャンスがめぐってきた。しかし、その経験は少し苦いものでもあった。
「若いうちにどこかでヘッドコーチになりたい気持ちは正直ありました。今までのキャリアで長く一緒に仕事をしてきたのが桶谷さんであり、僕のコーチング哲学は桶谷さんに近いです。ヘッドコーチの話があったときも、桶谷さんの後押しがありました。オファーがあれば、どこかのタイミングで引き受けることも大事だと思います。実際に、たった1シーズンでしたが、ヘッドコーチを経験できたのはすごく貴重な時間でした。実際に大阪でヘッドコーチを経験してみて、いろんなことを感じました。特に反省しなければいけなかったのは、ヘッドコーチという色を自分で作りすぎてしまったところです。アシスタントコーチのときは選手とうまく話せていたことがヘッドコーチになった途端に、元の自分のように選手と付き合えなくなってしまっていました。慣れないオーラを出してしまったことが、反省だったかなと思います」
失敗は成功の母である。ヘッドコーチという大きな経験ができたからこそ、明確な意思を持って次のステップへと踏み出すことができた。
貴重なヘッドコーチ経験を糧とし、さらにキャリアを積み上げるチャレンジ(後編)へ続く
文 泉誠一
写真 B.LEAGUE