「本当にありがたいですよね。でも、おこがましいことに僕はそのお誘いを1度お断りしたんです。東芝のようなトップチームでやるには力不足だと思っていました」。心が動いたのは、断ったにも関わらず声をかけ続けてくれた東芝の熱意。「自分が求められていることはやっぱりすごくうれしかったし、同世代の選手たちがみんなトップリーグを目指して頑張っている姿を見ると。せっかくもらったチャンスを無駄にしてはいけないという気持ちになりました」。新しい舞台でもう1度バスケットに挑戦してみようと心に決めて東芝に入団したのは2009年。以後7年に渡り東芝のユニフォームを着ることになる。「今振り返ってもあの7年間はバスケ選手として、人として自分を変えてくれたものすごく貴重な時間だったと思います。当時の自分はやんちゃでデタラメなところがある人間だったんですよ。でも、そんな自分を輝さん(田中ヘッドコーチ)も次のヘッドコーチの北(卓也)さんも我慢強く、本当に我慢強く育ててくれました。先輩たちや職場の人にも恵まれました。あの7年間で何を1番得たかと聞かれたら『人間力』と答えます。バスケット選手としてだけじゃなく、人として成長できた7年間でした」
30歳を超えて迎えた2つの転機
しかし、30歳を目前にして山下の気持ちは揺れる。「30歳ぐらいになると現役を引退して社業に専念する流れが東芝にはあります。下には藤井祐眞のような有力な後輩も入ってきていたし、自分も引退の時期なのだろうかといろいろ悩みました。翌年にはBリーグの開幕も決まっていたし、引退するのか、移籍してプロ選手の道を選ぶか…」
ライジングゼファー福岡への移籍を決意したのは「やっぱり地元の福岡で所縁が深い仲間たちとバスケをやりたいと思ったからです。Bリーグ3部からのスタートですが、逆にそれもモチベーションになるというか、このチームを強くして福岡を盛り上げたい気持ちが沸いてきました。もちろん決断するには覚悟が要りましたよ。自分のバスケット人生の大きな転機だったと思います」
ライジングゼファー福岡には山下の他にも福大大濠のOBである小林大祐(茨城ロボッツ)、堤啓士朗、 福翔高校のOBである加納督大(ライジングゼファー福岡)、中村学園三陽高校のOBである石谷聡(京都ハンナリーズ)といった福岡になじみのある選手が顔を揃え、能代工時代に2冠を制した北向由樹、210cmの青野文彦も加入。Bリーグ元年に3部優勝を飾り早々と2部昇格を決めた。しかし、この快進撃の裏で経営上の問題が浮上したのは3年目。「オーナーとフロントスタッフの顔ぶれが変わり、その後、厳しい経営状態が明らかになりました。もちろん新しいスタッフもクラブを守るために尽力してくれたと思いますが、その年の末に僕たち選手の給料も滞るようになってしまったんです」。福岡への愛着は人一倍ある。バスケットで地元を元気にしたい気持ちにも変わりはない。だが、妻と幼い2人の娘を持つ自分には家族の生活を守る責任がある。「今後のことを考えると、移籍を考えた方がいいという結論に成らざるを得ませんでした」
山下の島根スサノオマジックへの移籍が発表されたのは2019年。「僅か3年で福岡を離れるのは辛かったですが、島根は妻の故郷でもありもともと親近感があった土地。オファーをいただけたことに感謝して、また1から頑張りたいと思いました」。福岡から島根へ。32歳になった山下に訪れた2度目の転機だった。
あたりまえにバスケできることはあたりまえじゃないんだよ(後編)へ続く
文 松原貴実
写真 B.LEAGUE