入学して驚いたのは練習の厳しさはもちろんのこと、能代がバスケット一色の町だったことだ。「勝ってあたりまえのチームなんですね。勝つことが宿命みたいなチームなんです。1、2年のときタイトルが1つも取れなかったんですが、町を歩いていると知らないおじさんやおばさんから声かけられるんですよ。『こんなところにいないで体育館で練習しろよ』って言われるんです。監督や先輩じゃなくて町の人が1番プレッシャーをかけてくる(笑)」。だが、そのプレッシャーは愛情の裏返しだ。応援しているからこそ期待もする。期待しているからこそ勝利を願う。「そうなんです。能代の町全体がそんな感じで、こりゃ最後の年は絶対タイトルを取らなきゃまずいぞと思いました」。その結果、インターハイと国体で見事優勝。ウインターカップは3位に終わったものの、早々と東京の大学から声がかかった。が、その当時長谷川が考えていたのは近くの実業団に入って仕事をしながらバスケットをすることで「秋田にあるJR東日本秋田に入れたらいいなあって思っていました」。大学進学が視野に入っていなかったのは『自分が大学から誘われることなんてないだろう』と考えていたからだ。「はなからそう思っていたので、大学から話が来ていると聞いてびっくりしました」。その年の二冠を制した能代工の主力でありながら「大学から誘われてびっくりした」ということの方がびっくりだが、ともあれ長谷川はここで自分が進む道を “近くの実業団” から “大学進学” にシフトチェンジする。選んだのは兄(武)の母校でもある拓殖大学だった。
ケガという名の長いトンネル
長谷川が入学した当時拓殖大は関東大学リーグの2部に所属していた。ところが、その年は成績不振で3部との入れ替え戦に出場することになる。いきなりの崖っぷちで冷や汗をかいたが、なんとか3部落ちは回避。「そしたら翌年は一気に1部昇格を決めて、3年から1部の舞台で戦うことになりました。なんともアップダウンが激しい2年間でしたね」。そんな中、長谷川はチームを牽引するオールラウンダーとして活躍。点も取れるが、周りを生かすことにも長け、4年次の春のトーナメントで拓殖大を準優勝に押し上げた。秋には東芝ブレイブサンダースへの加入も内定し、残る目標は秋のリーグ戦とインカレの優勝。「いつになく気力も充実していたと思います」。しかし、その先に待っていたのは思いもよらぬ大きな落とし穴。リーグ戦の途中で長谷川は人生初とも言える大ケガを負う。左足首を骨折する重傷を負い、全治までどれほどの時間を要するのかすぐにはわからなかった。「わかっていたのは残りのリーグ戦もインカレも絶望だということ。東芝での1年目がリハビリからのスタートになることということだけでした。不安でしたね。次にコートに立てるのは半年後だろうか、1年後だろうかと」。
しかし、現実は想像をはるかに超えていた。このケガがようやく完治した後、間を置かずに疲労骨折、それが癒えたと思ったら今度は半年の治療を要する足のケガ。リハビリに費やす時間は長く、満足にコートに立てないまま時間が過ぎていく。長谷川が完全復帰と呼べる日を迎えたのはNBLのラストシーズン。東芝に加入してから実に3年の月日が流れていた。
文 松原貴実
写真 B.LEAGUE