笹倉怜寿は興奮していた。
アルバルク東京が獲得の意思を示してくれたからだ。そこに足を踏み入れれば、きっと成長できる。国内トップクラスの選手たちと対戦することもできる。
あのときバスケットをやめなくてよかった──。
笹倉は富山県出身。あの──今となっては「あの」とつけていいだろう──奥田中学を卒業している。先輩には馬場雄大(メルボルン・ユナイテッド)がいて、同級生には八村塁(ワシントン・ウィザーズ)がいる。八村とはともに埼玉県でおこなわれた全国中学校バスケットボール大会(全中)に出場し、準優勝という結果も残している。
しかし笹倉はそこで「バスケットはもういいかな」と本気で考えたという。バスケットが嫌になったわけではない。むしろその逆。ただただバスケットが大好きで、楽しくてしかたがなかった。だからというわけではないが、将来のことなんてまったく考えていなかった。そして夢のような全中を終えたとき、ふと「もういいかな」という思いが巡ってきたのである。他の同級生からは遅れているかもしれないが、短期間でもしっかり受験勉強をして、進学しよう。将来は保育士になろうかな。そんなことも考えていたと振り返る。
「でも担任の先生や親、いろんな方から『もったいない』って言われて、『一度、ここの学校を見てきなさい』って言われて、見に行ったのが東海大学付属第三(現・東海大学付属諏訪)高校だったんです。周りがそんなアドバイスやサポートをしてくれたおかげで今の僕があるんです。本当に恵まれているなって思っています」
周囲のすすめでバスケットを続けた笹倉だが、東海大学に進学後も当初はプロを目指していたわけではなかった。チームメイトはSNSやYouTubeなどで見ていた同世代のスター選手たちばかり。ついていけるのか。生き残れるのか。そんなことばかりを考えていた。
「その先を見ることができなくて、もがいて、もがいて、チャンスをしっかりつかんでいくしかない……目の前のことしか考えられなかったんです」
転機は大学3年生のとき。22歳以下の日本代表に選出され、日韓の大学生選抜チームによる定期戦、李相佰(りそうはく)盃に出場したことである。これまで培ってきたスキルとフィジカルが、体の大きな韓国人選手にも通用する。その感覚がもっと上を目指していいんじゃないか、もっともっと高いレベルでプレーできるんじゃないか、プロを目指してみよう、という考えに導いたのである。
そんな笹倉に呼応するかのようにオファーを出したのが、Bリーグを連覇していたアルバルク東京だったというわけである。