視野を広げて選んだBリーガーの道
「たとえば練習の雰囲気が悪いときがあったら、大濠ならすかさず片峯(聡太)先生から『こんなんじゃダメだぞ』という声が飛びます。選手を鼓舞してバスケットに集中させてくれるというか、僕たちをバスケットに専念させてくれたのはいつも片峯先生だったと思います。だけど、大学ではそうはいきません。練習メニューは吉田先生(健司監督)が提示してくださいますが、質のいい練習をするための雰囲気作りは選手自身がやらなくてはなりません。それが高校とは大きく違うところ。当然(練習に)取り組む意識も変わったし、そこから学ぶこともたくさんありました」
改めて大学4年間を振り返って思うことは?の質問に対して増田はそう答えた。
「筑波に入った年にはキャプテンの生原(秀将)さんを中心に4年生たちが練習の雰囲気作りをしてくださり、3年生のヤスさん(青木保憲)とかもいろいろ発言してチームを引っ張ってくれました。だから自分たち1年生はただついて行くだけでよかったんです。でも、学年が上がるにつれて自分たちの役割を考えなくてはならなくなり、自分たちがしっかりしないと、という意識も芽生えてきました」
増田自身について言えば、筑波大の中で徐々に存在感を示していったのはもちろんのこと、2年次にはU19日本代表メンバーとしてワールドカップに出場。3年次にはU22日本代表としてユニバーシアード大会にも参加し活躍の場を広げていった。4年次には並みいるライバルたちを抑えて関東大学リーグの得点王を奪取、大学最後のインカレで見事優勝を成し遂げるとアシスト王と優秀選手賞にも輝き有終の美を飾った。大学界を代表する選手として注目を集め、Bリーグのチームから特別指定選手のオファーがあったのも当然のことだろう。
「でも…」と、増田は言う。「でも当時、僕はBリーガーになりたいとは全然思ってなかったんです」。1年のころに仕事をしながらバスケットができる実業団チームがあることを知り、「そうか、そういう選択肢もあるのかと、漠然とですが実業団に行くことが自分の目標になりました。プロになりたいとか、そういう夢を持ったことは1度もなくて周りにも将来は実業団チームに入りたいと話していたぐらいです」
繰り返すようで恐縮だが、増田はアンダーカテゴリーの日本代表として世界の舞台を踏んだ選手である。関東大学リーグの得点王に輝き、筑波大を日本一に牽引した選手でもある。にもかかわらず、「当時の自分はBリーグにあまり興味がなかったんです」と、真顔で言ってのけるのだ。川崎から特別指定選手のオファーが来たときも「まあ、なにごとも経験だからBリーグに行かないとしても違う世界を見ておくのはいいことだぞ」と吉田先生に言われ、「それもそうだなと思ったから(オファーを)受けることにしました」と言う。こんなふうに書くとなにやら不遜なヤツに思われそうだが、それは違う。小学生のときからバスケットを続けてきたのは「バスケットが好きだったから」ということに嘘はなく、高校でも大学でもいかに〝チームを勝たせるか〞ということに全力を傾けてきた。当時の増田の目標は常に〝チームの勝利〞であり、それ以外のことは考えていなかった。つまり増田の視野の中にはBリーグという存在がなかったのだ。