part2「能代工高のオーラと田臥勇太との衝撃的な出会い」より続く
達観していたJBL時代から完全プロ化して気づかされた危機感
高校時代は満員の東京体育館でプレーし、大学時代もインカレ決勝はテレビ中継があり、注目を浴び続けて来た。卒業後は三菱電機へ就職する形でバスケを続ける。当時、空席の方が目立つJBLにおいて学生時代とのギャップを感じながらも、その状況に対して達観するしかなかった。
「正直に言いますと、バスケだけしてお金をもらっており、まわりからはプロだと言われていましたが、その実感はなかったです。お客さんが入っているわけではないし、集客で利益を得る狙いもなかった。当時は30歳くらいで引退し、その後は会社に残ったり、教員になったりするケースが多かったので、僕も同じように思っていました」
とはいえ、日本を代表するトップリーグであり、手を抜いてバスケができる環境ではない。「沖田(眞)さんや大野(篤史)さん(現:千葉ジェッツヘッドコーチ)、梶山(信吾)さん(現:名古屋Dヘッドコーチ)ら当時の先輩たちが、プロ意識を持って練習に取り組む姿を見て、これはちゃんとやらなければいけない」と鵜澤は気を引き締める。唯一のモチベーションは、大学2年次に経験した「優勝をもう一度味わいたい」。言い換えれば、目の前の戦いに集中さえすれば良かった。
淡々とキャリアを積み重ねる中、転機が訪れたのがBリーグ誕生だ。2016年9月24日、名古屋ダイヤモンドドルフィンズの開幕戦は5084人を集め、愛知県体育館がはじめてファンで埋まった。同時にプロとは何かを認識した瞬間でもある。
「このままじゃダメだと思いました。ようやく自分たちが求めていた舞台であり、年齢もキャリアも関係なく、今まで以上に打ち込まなければいけない。シュート1本を決めたときの歓声が、今までとは全然違いました。ようやく2つのリーグが統合し、京都(ハンナリーズ)のブースターが名古屋まで応援に来ている姿を見たら、これが本来あるべき姿だと思いました。今後さらに発展させていくためにも、協会やリーグの上の人たちではなく、選手である自分たち自身が行動していかなければいけないと思いました。身の引き締まる思いというか、はじめての感覚でした。選手として本当にがんばらないといけないし、ようやく願っていた環境を手に入れたのだから、ここから衰退させてはいけないという危機感がありましたね」
はじめての移籍経験「オレも、もうちょっと輝きたい」
「移籍することなんて全く考えていなかった」という鵜澤は、13年間全うしてきた名古屋Dに骨を埋めるつもりだった。その気持ちを変えさせるきっかけとなったのが、名古屋Dでもチームメイトだった先輩、五十嵐圭である。
Bリーグ1年目、新潟アルビレックスBBとの試合を終えたあと、移籍したばかりの五十嵐に食事へ誘われた。いろんな話をする中で「来シーズン、うち(新潟)に来いよ」という五十嵐の言葉に対し、「正直、その場の勢いで言っているのかな」と話半分に聞いていた。しかしオフになった瞬間、「新潟が一目散にオファーしてきたんです。あれ?新潟は本気なんだと思ったわけです」。選手としては晩年を迎えており、プレータイムも減っていた。五十嵐をはじめ、完全プロ化したBリーグの舞台で活躍する同世代に対し、「正直うらやましかった。オレも、もうちょっと輝きたいなんて思ってた部分がありました」と移籍に対して意欲が芽生える。
「新潟が新たなチャレンジとチャンスの場を与えてくれるならば、断る理由はない」