今なお後悔するキャプテンとして臨んだインカレでのベスト8敗退
日本体育大学に進んだ鵜澤は、2001年の2年次にはじめて日本一に立った。今となっては現役時代の優勝は、これが最初で最後となってしまった。「今だから言えますが…」と当時のヒーローとなった先輩の話に及ぶ。
「2つ上の木下(博之)さん(※パナソニックトライアンズ、日立サンロッカーズ、大阪エヴェッサで活躍し、2019年に引退)が怖かったんです。確かにバスケはすごいし、言っていることも間違ってはいないですが、先輩ということもあってやっぱり怖かったです」
当時の大学日本一を決めるインカレは、4ブロックに分かれたトーナメントを勝ち抜いた4チームによる総当たりのリーグ戦で優勝を決める。中央大学に77-66、続く筑波大学を93-76で下し、王手をかけた専修大学が最後の対戦相手だった。
「最後の専修大戦は負ける気はしなかったし、絶対に勝てると自信を持って戦っていました。僕が思うにBリーグでもそうですが、試合をしながら成長していると思えるときのチームは強いです。勝てる自信があります。あのときの木下さんは勝ちたい気持ちが強く、誰にも止められなかった」
「誰にも止められなかった」とは、手をつけられないほど木下先輩はヤンチャだったのかと疑ってみる。「そっちじゃなくて、バスケの方です。バスケがすごくて!」と鵜澤は慌てて訂正し、ビールでのどを潤す。そんな木下先輩とは「会場で会えば他愛のない話もしますし、今は普通です。もうお互いに大人なんでね」。
木下先輩はMVPに輝き、2年生の鵜澤はベスト5とリバウンド王を受賞し、日本一へと導く活躍を見せた。3年次は初優勝を決めた専修大学に敗れ、準優勝に終わる。「優勝しなければ、2位も3位も全部一緒」と、日本体育大学の清水義明監督は常に言い聞かせてきた。キャプテンとなった鵜澤のラストシーズンは、伝統校ゆえのプレッシャーが大きくのし掛かる。
「日体大の伝統に泥を塗った年のキャプテンだと思っていますし、今でも申し訳なかったです」という鵜澤の記憶では、4年次のインカレはベスト16敗退だった。しかし、実際には8位。勝てなかった悔しさと、申し訳ない気持ちを今なお引きずっている。
「あのときに優勝し、きちんと後輩たちにその伝統を引き継いでいれば良かったのですが、ある意味で負けグセをつけてしまった代だという責任を感じています。勝たなければいけないという重圧を、良い意味でのプレッシャーを後輩たちに引き継ぐことができなかったです」
最後は苦い思いをしたが、「今思えば楽しかったですよ。そして、バスケットに関しては妥協を許さなかったですね。日体大の4年間は、本当に濃かったですし、いろんな勉強ができました。それは社会人になってからも役立つことも多かったです」。鵜澤より上の世代の日本体育大学には数々の武勇伝があり、尾ひれがついた噂話を耳にしてきた。「今だから言えるけど──」という笑い話は、自主規制しておこう。
part3「達観していたJBL時代から完全プロ化して気づかされた危機感」へ続く
文 泉誠一
写真 B.LEAGUE
画像 バスケットボールスピリッツ編集部