引退を勧告される形となったが、鵜澤自身はしなやかなアウトサイドシュートを持つビッグマンの先駆けだった。
「4番や5番でずっとやってきましたが、30分間以上出場するかといえば、キャリアを振り返ってもそれは難しかったです。限られた時間内にどれだけ仕事をするかを一番に考え、その中でシュート力が僕の武器だと思っていました。少ない本数でも確実に決めることと、身体を張る部分はプライドを持って戦っていました」
ラストシーズンは、試投数こそ57本と少ないが25本をしっかりと決めている。43.9%の3Pシュート成功率は、プロとなった4年間で最も高い数字を残した。
シュートを打つ喜びを知った中学時代
「シカゴブルズが大好きで、その中でもトニー・クーコッチが大好きでした」と、同じレフティーに憧れた。バスケをはじめた90年代、インサイドプレーヤーが3Pシュートを打つことは希であり、「お前が打ったらリバウンドは誰が行くんだ」と怒られる時代だった。しかし、センターの鵜澤は「それが武器になるのであれば、全然いいじゃん」と前向きな思考を持ち、そのための努力も惜しまなかった。何より、シュートというものに飢えていた。
184cmあった小学生時代は、Jリーグ誕生のブームに乗ってサッカーをはじめる。三浦カズやアルシンドなど華やかなフォワードをイメージしていたが、大きな鵜澤に与えられたポジションはゴールキーパー、「全然おもしろくなかったです」。中学生になってバスケと出会う。すると、サッカーでは味わうことができなかったシュートが何本でも打てることに喜びを見出す。「自分がこんなに主役になれるんだ」と一気にのめり込んでいった。部活動だけでは飽き足らず、「バスケットをずっとがんばるから、諦めないでがんばるから」と母親に頼み込み、庭に自分専用のバスケットゴールが設置された。
部活を終えて帰宅すると、「真っ暗になるまでひたすらシューティング。リングが見えなくなっても、感覚で決めるくらいになるまでず〜っとシュートしていました」。ただ打つだけではなく、憧れのクーコッチのビデオテープをすり切れるまで見直し、イメージしてシューティングを繰り返す。当時のNBAはセンター全盛期であり、鵜澤のスピンムーヴにも定評があった。「(アキーム)オラジュワンも大好きでした」というのも納得である。