「当時のトヨタには渡邉拓馬さん、高橋マイケルさん、古田悟さん、チャールズ・オバノンといったそうそうたるメンバーが揃い、本当にこんなチームに自分が入ってもいいのかなと思うぐらいでした(笑)。正社員で社員選手として入社したのは、いっしょに入団することになった岡田の影響もあります。あいつはすでに公認会計士を目指していて、3年生ぐらいから勉強も始めていました。資格を取るためにプロ選手になり、バスケ以外の時間は勉強に充てるという彼を見て、それぐらい自分のキャリアと向き合った選手でないとプロでやらない方がいいのかなと思ったんです。もちろんトヨタ自動車という企業の魅力も大きかったですよ。グローバル企業としての存在感やものづくりに対しての独特の哲学など、組織としてよりよく成長するプロセスにも興味を持ち、それを学びたいとも思っていました。社員になってバスケットをすることに関しても『しっかり目標設定をして成果を出すために競技に取り組むことは、業務サイクルを回すことと同様であるから、バスケ競技も業務としてしっかり向き合いなさい』というスタンス。変ないい方ですが、社業がバスケに差し障ることは全くなくて、会社の人に支えられる喜びも知ったし、応援されることに応えなければいけない責任も感じながら、大変ありがたい環境でバスケをさせてもらっていたと思っています。リーグ全体を見れば、Bリーグが発足してこれまでの企業チームがプロチームになったのを機にプロの道を選んだ選手もたくさんいますが、僕は社員選手であることに迷いはなかったですね。自分の中で迷う理由がありませんでした」
トヨタのユニフォームを着たルーキーの正中は初戦58秒のプレータイムでデビューを飾る。次の試合は2分半出場してシュートも決めた。以来、徐々に徐々にプレータイムを増やし、主力となった5年目のシーズンにはリーグと天皇杯を制覇。チームが求め続けてきた6年ぶりの優勝は、正中にとって生まれて初めて手にする栄冠でもあった
「あの優勝は個人としてもチームとしてもすごく意味があるものだったと思います。5年というのは結構長い時間。その間にはリーマンショックによる厳しい社会情勢もあって、企業チームとして難しい時期を迎えていました。トヨタには野球部、ラグビー部、陸上長距離部、女子バスケ部などいくつかの強化運動部がありますが、東京を拠点にしている男子バスケ部はロケーション的に会社への貢献度が伝わりにくい面があります。だから他の強化運動部と比較して、求められている機能を果たしているという評価はなかなか得られにくく、社員選手としてどのように社内外にチームの存在感を示していけるのか、チームとしていかに良い結果を出せるか、どうすればたくさんの人が必要だと感じてくれるチームを作れるか、そんなことと向き合いながら過ごした日々でした。4年目にドナルド・ベックヘッドコーチを迎え、5年目に竹内公輔(宇都宮ブレックス)が入り、一丸となって突き進んだ先にあった優勝。これはもういろんな意味で大きい、ありがたい、貴重なタイトルだったと思います。忘れられないですね。本当に忘れられない優勝でした」
そのとき正中は27歳。選手として最も脂がのった時期だった。2011年には日本代表メンバーとしてロンドンオリンピック予選も兼ねたアジア選手権に参戦。
「日の丸を付けることは常に自分のモチベーションになったし、身体のキレやメンタルの充実、残した数字を見ても優勝の翌年、さらにその翌年ぐらいが主だった切り取り方をする上での選手としてのピークだったかなあと思います。1つだけ誇れるとしたら、ルーキーシーズンの最初の試合からJBLの6年間、NBLの1年間、全ての試合に出場したこと。7シーズン一試合も欠かすことなくコートに立ったということです」
だが、その記録がついに途切れる日がやってくる。それは8シーズン目がスタートして間もない2014年11月1日。アルバルクに入団して293試合目のことだった。
part3「“引退”は次のステージに向かう切符」へ続く
文 松原貴実
写真 B.LEAGUE
画像 バスケットボールスピリッツ編集部