part1「最後のウインターカップ予選で72得点をマーク」より続く
当時青山学院大学のヘッドコーチを務めていた長谷川健志が正中から送られてきたビデオを見たのは入学願書の締め切りも近い秋のことだった。「プレーを見て、この選手はおもしろいなあと思った」という長谷川はすぐに本人に電話を入れる。そこで話したのは、『選手として非常に興味を持ったこと。推薦枠で受験してほしいが、主だった新入生(の加入)は決まっており、合格する可能性が100%とは言えないということ』。長谷川が話し終えると、電話の向こうから正中の返事が聞こえた。「わかりました。少しでも可能性があるなら自分はトライしてみたいです」──長谷川はその場でバスケット部の概要と正中が希望している法学部の説明書を用意し、「このあとコピーした資料をFAXで送るから、それを読んで志望動機をまとめ、明日中に私宛にFAXで送ってほしい」と伝えた。「そんなやり取りをしたのは夜の9時ごろだったでしょうか。翌日、正中から返信があったのは朝の8時半でした」。書かれたものを読んで、長谷川はうーんと唸ったという。「彼の信念が伝わるすばらしい内容だったから。これを一晩で書き上げたのかと思ったら、思わず唸り声が出ました」。もう一度返信書類に目を通す長谷川の唸り声が言葉に変わった。「すごい子がうちに来そうだ」。
『努力できること』を武器に成長していった4年間
「青学に合格したあとも不安はありましたよ。初めての1人暮らしもそうだし、勉強もそうだし、何より強豪校の練習についていけるのかなあという不安。事実練習はかなり厳しかったです。でも、面食らってもう辞めたいと思うほどではなかった。きっと自分に対しての期待感というか、今から何かを証明しなければならないというのがなかった分、楽だったんじゃないかと思います。ポジションを得るために自分の実力をすぐに証明しなければならない大所帯のチームではなく、青学は少ない人数の中でコツコツと努力しながら力をつけていくチーム。それが自分に合っていた気がします。ただ、トップのチームに触れるのは(大学に入って)初めての経験だったので、そこはちょっと『おおっ』となるところもありましたね(笑)。集まってくる選手のレベルは間違いなく高い。たとえば岡田優介(アースフレンズ東京Z)なんかは月バス(月刊バスケットボール)に載るような選手で、シュートもスパスパ入るし、やっぱりすげーなと思いました。負けず嫌いと言われる自分とおんなじぐらい負けず嫌いで、練習でも結構バチバチやっていました。でも、そこまで張り合っていたわけではなく、あいつは自分よりずっと前を行く選手だから、そんなあいつに認められたいっていう気持ちがあった。その気持ちが当時の自分を動かしていたような気がします」
一方、岡田によると「青学に入ってきたころの正中はガリガリに痩せていて、すぐ熱くなるおもしろいヤツだった」らしい。だが、練習に取り組む熱量、負けん気の強さは自分と共通しており、「最初からすごく波長が合った」という。1984年(85年)生まれの彼らの世代は有力選手が揃うゴールデン世代と呼ばれたが、その中でほぼ無名に近かった正中は前を行く岡田の背中を追いかけ、人一倍の努力を重ねることで『世代を代表する選手の1人』に成長していく。3年次にはついにスタメンの座を勝ち取りリーグ優勝、インカレ準優勝に貢献。卒業した2007年のユニバーシアード(バンコク大会)では日の丸を付け、4位入賞のワンピースになった。ユニバーシアード代表チームの監督も務めた長谷川健志はこう語る。「正直、当時は正中よりサイズがあり、スピードがあり、パワーがある選手は他にもたくさんいた。では、何が彼をあそこまでの選手にしたかと言うと、まずはしっかりした目標設定ができること。次にそこに向かう努力を徹底的に惜しまないこと。その姿が仲間たちに与える影響も非常に大きく、次第にチームに必要不可欠の存在になった。つまり、あいつは“努力できること”を武器に自分で自分を育てていったんですよ」。そんな正中にトヨタ自動車アルバルクからオファーがあったのは青学大での3年が終わろうとしているころだった。