目指していた“そのあたり”をクリアした正中は3年次に国体メンバーに選出される。国体が終わるまでは引退できないことから、その年のウインターカップ予選にも出場することになった。下級生主体のチームの中で担ったのは「点を取ること」。関西学院高等部と対戦した準決勝ではなんと72得点をマークして一躍注目を集める。
「自分がどうやって72点取ったのか細かい記憶はないんですが、3ポイントシュートを10本決めたのは覚えています。ラッキーでもあったんですよ。優勝候補だった育英がまさかの敗退となって、もしかするとうちにもチャンスがあるかもって、みんなのテンションが上がりました。決勝ではたしか28得点だったと思いますが、優勝してウインターカップ出場を決めました。インターハイも出たことがなかったので、チームとしては初めての全国大会です。初戦の相手は市立柏。大黒柱の太田(敦也・三遠ネオフェニックス)がインフルエンザで欠場すると聞いて、おっ、もしかしたら勝機があるかもと思ったんですが、市立柏にはもう1人副島淳っていうデカい選手がいて、とにかくインサイドをガンガン攻めてくる。サイズの差を見せつけられて試合が終わりました。高校生活最後の最後に出たウインターカップでしたが、全国の壁は厚かったですね」
しかし、正中にはこのとき1つの大学から誘いの声がかかっていた。関東の強豪・青山学院大学だ。
「いえ、誘ってもらったといっても合格を確約されていたわけではないんですよ。当時、青学には育英出身の田中範昌さんっていうガードがいて、もう自分もあこがれていた地元では有名な選手だったんですけど、その田中さんが卒業するので入れ替わりにガードを探しているっていう話を育英の先生を通じて聞いたんです。それで試合のビデオを送ってみたら興味を持ってもらえて、『法学部だったら競技記録も他学部にくらべると厳しくないので、小論文と面接をしっかりやれば合格する可能性もある。受けるだけ受けてみたらどうか』という話になったんです。あくまで『可能性がある』っていう話です。でも、そこに至るまでにはもう一つドラマがあるんですよ。まあドラマと言っていいのかはわからないですけど(笑)。実はインターハイ予選でベスト8になったときに関西大学から推薦入学の話があったんですね。ぜひバスケ部に来てほしいということだったのでその気になって書類を出したんです。そしたら、まさかの不合格!えぇぇー、うっそー!ですよ。自分は二次試験の面接を受けるつもりになってましたから(笑)。だけど、よく考えてみたら二次試験の面接日とウインターカップ予選の準決勝の日は同じだったんです。つまり、書類選考に通っていたら、二次試験を受けるためウインターカップ予選には出られなかったということですね。と、なると必然的に72得点の記録も出していないわけです。72点を取る試合がなかったら恐らく青学を受けるチャンスもなかったわけで、なんか不思議な導きって言うんですかね。これ、やっぱりドラマじゃないですか?(笑)」
もし、青学大に進む道がなかったら自分はどうしていただろうと考えることがある。国公立の大学を受験する生徒が多い理系クラスにいたこともあり、恐らく自分も一浪覚悟で国立大学を目指していたのではないか。どこか地方の国公立大学、もしくは教育大学に進んで教師を目指していたんじゃないか。いずれにせよバスケットには区切りをつけていただろう。あのころ。半分は心でそう決めていた。
「でも、なぜかわからないんですけど、青学を受けるチャンスをもらったとき、扉が1つ開いたような気がしたんです。田中さんが行っていたようなとんでもない強豪大学だけどその場所に行ってみたいと思いました。扉の向こうの場所でバスケットをやりたいと思ったんです」
part2「『努力できること』を武器に成長していった4年間」へ続く
文 松原貴実
写真 B.LEAGUE
画像 バスケットボールスピリッツ編集部