どれほど実績のある選手でも、どんなに輝き続けた選手でも、いつかは『引退』の言葉とともにユニフォームを脱ぐ日がやってくる。49歳まで見事に現役を続行した鉄人・折茂武彦も、19年に渡り王者アイシン(シーホース三河)を支え続けた桜木ジェイアールも「レジェンド」の称号を胸に今年コートを去ることになった。6月9日に引退を発表した正中岳城もまたその1人だ。トヨタ自動車アルバルクに入団して13年。「折茂さんやジェイアールに比べたら、選手としての器もキャリアも遠く及ばない」と、本人は語るが、企業チームからプロクラブへと形態を変えたアルバルク東京を心技で牽引してきた功績は誰もが認めるところだろう。背番号の『7』をチームが『永久欠番』と定めたことはその功績の大きさの証であり、引退発表の日にSNSにあふれた賞賛や感謝の言葉は、多くの仲間やファンから愛されたことを示していた。兵庫県に生まれた負けん気の強い少年がバスケットと出会い、どんなバスケット人生を歩んできたのか、本人が語る言葉とともに今一度振り返ってみたい。
最後のウインターカップ予選で72得点をマーク
「生まれたのは兵庫県加古川市です。2歳上に兄がいて、その兄がバスケットをやっていたので、自分も小4の終わりぐらいからバスケットを始めました。5年生の終わりごろになったとき明石市に引っ越すことになりましたが、バスケは続けたくて週3回加古川市のクラブに通っていました。バスケが上手かったか?というと、まあ上手い方だったと思います(笑)。クラブ内の同じ学年の子の中では1番遅くバスケを始めたんですが、6年のときはキャプテンに選んでもらいました。まあ、それぐらいは上手かったかなあという感じですね。だけど、中学時代はほぼ無名で、ジュニアオールスターとか地区の選抜チームに選ばれたことは1度もありません。チームに1人上手い子がいて、彼はそういった代表メンバーに選出されて、卒業後はバスケの名門・育英高校に進んだんですけど、自分はというと、いつもその子の陰に隠れているような存在でした。でも、それなりには頑張っていて、エリアの中ではちょっとは認めてもらえるような選手だったかなあ。御影工業(現神戸市立科学技術高等学校)から声をかけてもらったんですよ。古川(孝敏・秋田ノーザンハピネッツ)が出た高校ですね。でも、当時の自分にはそこまで強い全国区の高校に行きたいという気持ちはありませんでした。たぶん自信がなかったんだと思います。加古川に住んでいたときの近所に強豪校に行ったお兄ちゃんがいて、その人がえらい大変な思いをした話を聞いてたし、毎日電車に乗って遠い高校まで通ってバスケをする生活は自分には無理だと思っていました。だいたい工業高校というとほぼ男ばっかしじゃないですか。なんか自分には向いてないんじゃないかなあと(笑)」
進んだのは兄も通っていた県立明石高校。迷わずバスケット部に入ったが、将来もバスケットを続けようとは考えていなかった。仮に大学で続けたとしてもそこまで。バスケットを職業として生きる自分の姿など想像すらできなかった。
「明石高校の顧問の先生はおじいちゃんで、練習はわりと自由な感じだったんですが、昔は女子のチームを強くした実績もあり、選抜チームのスタッフもされている先生だったので、それなりにしんどいトレーニングも含めた練習もしてました。兵庫県の中でも明石高校がある東播地区というのは、神戸や阪神地区に比べると弱いんですよ。けど、その強くはない地区で優勝できるぐらいの力はありました。ある程度限られたエリアで活躍できるという感じで、チャンスがあれば国体の選抜チームに入って全国大会に出る。当時自分が目指していたのはそのあたりでしたね」