「僕には子どもが2人いるんですけど、昨年、上の子が年長さんで、やっとお父さんがバスケットをやっていることをわかってきて、『パパ、いつ、今度バスケットをやるの?』って興味も持ってくれたんです。だから子どもに背中に見せたかったというか……あきらめるのは簡単ですけど、頑張って戻ることで何か伝わればいいな、自分の生き方を貫くことで何か伝わるものがあるんじゃないかなと思って、手術をしようと決めました。子どもだけじゃなく、妻もずっと痛みがあることを知っていて、『復帰できるように頑張ろうよ』という思いでいろいろ協力してくれました。ほかにもいろんな人が協力してくれていたので、そういう人たちのためにも頑張ろうかなと」
声を詰まらせながらそう明かしたあと、栗原は言葉に力を込めて、こう続けた。
「今までは自分のためにバスケットをやっていたんですけど、今回は周りの人たちに支えてもらったので、なんとかそれに応えたいなという思いが強かったです。近くにこんなにも応援してくれている人がいるなかで、何もせずに『俺、辞めます』と言うのは応援してくださった人たちに失礼だし、僕自身がそういう生き方はしたくなかったんです」
リハビリ期間に入ると、当初は「これで本当に走れるんだろうか?」、「また飛べるようになるんだろうか?」と不安に思うこともあった。何しろ足首の一番大きな関節を固定しているのだ。そこが動かない以上、周りの細かい関節の可動域を広げて、固定した足首の代わりをしてもらうしかない。頭では理解できるが、実際にそれでどこまで動くのかはわからない。手首のときと違って、相談できる相手もいない。
Bリーグで活躍する旧知のチームドクターと話せば「1年くらいかかると思う」、「10カ月での復帰は難しいんじゃないかな」と返ってくる。悪意はない。そのことは栗原自身もよくわかっている。彼らの知識や経験、情報をもってしても、それほど簡単な手術ではなかったのだ。しかしそれがまた一層不安を掻き立てる。
ただ担当の自身が信頼をおいているトレーナーは常に前向きだった。前例のない手術ではあったが、それをどう乗り越えて、Bリーグにどう復帰していくか。そのプロセスに真摯に向き合い、メニューを考えてくれた。彼らの存在、メンタリティは栗原自身を前向きにさせるものだったが、他方、リハビリの強度が上がってくれば、動かそうとする細かな関節への負担は大きくなり、痛みも伴ってくる。「今度はこの痛みとつきあわなければいけないのか」。そうした痛みは動きが馴染んでくれば収まるものだったが、リハビリ期間はまさに五里霧中、迷走の日々でもあった。
「ホームゲームには帯同していたので、早くあの場所に戻りたいという思いもありました。ただチームメイトが普通に走っている姿を見るだけで『いいなぁ』って思って見ちゃうんですよ。昨年末くらいだったかな、医者は『もう復帰していいよ』って言うんですけど、右手首、右足のリスフランと続いていたから、それらを含めると9カ月くらいトレーニングをできていないわけです。それだけの衰えをわずか数か月のリハビリでは取り戻せないし、どこまで上げていけるのかもわからなかった。でも早く復帰したい。そういう思いが焦りにつながるなど、そのころはツラかったですね」
2つのケガと、前例のない手術。長期にわたるリハビリ期間。そしてチームメイトへの羨望。そうしたものをないまぜにしながらも、2020年1月28日、栗原はインジュアリーリストからその名を抹消され、Bリーグの舞台へと戻っていった。
part3「必要とされるチームでプレーしたい!」へ続く
文 三上太
写真 B.LEAGUE