1990年、1991年は安藤がまだ生まれておらず、のちにフランチャイズプレーヤーとなった梶山さえもまだ三菱電機に入団していない。だからこそ大学時代の4年間、ラブコールを送り続けてくれた梶山とともに頂点に立って、喜びを心から分かち合いたい。安藤はそう考えている。
しかも安藤がつけている背番号「9」はかつて梶山が背負っていた番号でもある。彼へのリスペクトは相当に強いのかと思われたが、「最初に番号を決めるとき、9を背負うことがどういう意味なのか、わからなかったんです」と、こちらもさっくりと否定された。このあっけらかんとした純朴さ、純粋さが安藤の持ち味のひとつなのだろう。
安藤にとっての「9」は、梶山が背負っていたというより兄の背番号だった。本人は「13」をつけたかったそうだが、青山学院大時代も、名古屋Dに入ってからもすでに「13」は埋まっていて(名古屋Dではジョーダン・バチンスキーがつけていて、安藤が加入後すぐにバチンスキーは契約解除になっている)、兄と相談して「9」にしたそうだ(大学3、4年時は「24」)。
「そうしたら当時のマネージャーが『カジさんの番号だけど大丈夫?』って言うんです。僕はそう言っている意味があまりわからなかったんです。よくありますよね、この人のつけた番号だから、それを受け継ぐことの意味みたいなものが。僕はそんなことをあまり気にしたことがなかったので、マネージャーからそう言われたときは『何を言っているんだろう?』くらいにしか思っていなかったんです。でもよくよく考えてみたら、カジさんがつけて、川村(卓也・現シーホース三河)さんもつけていたなと。ああ、そういうことかと……急に9番が重たくなってきたなって(笑)。でもカジさんも『もちろんつけてくれていいよ』って言ってくれたし、それで『やっぱりやめます』とも言えないから、9にしようと」
純朴、純粋である。
ただこれで話が終われば笑い話だが、こちらが「受け継いだというよりも、自然の流れ、ある意味で運命ですね。受け継いで背負うよりも自分で新たに切り拓く感じですか?」と質問をすると、安藤は少年のような笑顔を浮かべながらも、はっきりとこう宣言した。
「カジさんの9番ではなく、僕の9番にします」
純朴さの内に秘める強い覚悟。それこそが安藤を突き動かし、名古屋Dのフランチャイズプレーヤーへと導く大きな原動力となっている。
part3へ続く
文 三上太
写真 沼田侑悟