「水谷先生から(就職は)『ダメ』って言われたときはどうしよう? って思いましたよ。でもそのときに長谷川さん(健志。青山学院大学男子バスケット部・前ヘッドコーチ)が声を掛けてくれて、じゃあ、行こうかと」
のちに知ったのが、安藤が2年生のときのインターハイで水谷と長谷川が偶然に会う機会があり、そのときに水谷は安藤のことを売り込んでいたらしい。その年のU18男子日本代表合宿に初召集された際、再び長谷川の目に留まり、就職から青山学院大進学へと舵を切ることとなった。
現在へとつながる話の入り口だが、そこにもうひとつの物語が加わる。
青山学院大学へ進学し、例年6月におこなわれる関東大学新人戦。ここで安藤はある人物に見初められる。名古屋Dの前身、三菱電機ダイヤモンドドルフィンズのフランチャイズプレーヤーであり、その後アシスタントコーチを経て、現在は同チームのヘッドコーチを務める梶山信吾である。梶山が当時を振り返って言う。
「なんだ、この子は……めちゃくちゃシュートタッチのいい子がいるって思って、そこからずっと見続けていました。もう一目惚れですね」
この梶山との出会いが安藤を次のステージ、すなわちプロの世界へと誘ったのである。
安藤も当時をこう述懐する。
「僕が覚えているのは、1年生のときにここ(名古屋Dの練習体育館)で合宿をした帰りに、カジさん(梶山信吾)から『どう?』って言われたことです。そのときはまだプロをあまり意識していなかったし、冗談半分で言っているものだと思って『何を言っているんだろう?』くらいにしか捉えていなくて、ちょっと聞き流していたんです(笑)。でも、その後も4年間ずっとラブコールを送ってくださったので、これはもう応えるしかないと。それほどまでに期待をしてくださるのなら、このチームで何かを残したいと思って、名古屋D入りを決断しました」
スポーツの世界に「たられば」はない。しかし安藤の歩んできた道に水谷がいなければ、今頃彼は幼いころの夢を叶えていたかもしれない。父とともに出勤し、ともに帰ってくる。そして母の料理を肴にお酒を飲み交わし、B.LEAGUEをテレビで観戦し、ときに意見をぶつけながら、翌朝もまた一緒に出勤する。それはそれで幸せなことだと思うが、一方でそれは彼の持つ稀有な才能を市井に埋もれさせることも意味する。つまりバスケットファン、とりわけ名古屋Dをサポートするファンは彼のシュートで勝つシーンを見られなかったかもしれないのだ。そう考えると水谷の判断は、安藤に新しい夢を与え、日本のバスケットシーンに光を与えるという意味でも、賢明だったといえよう。
むろん長谷川や、彼の後を継いだ廣瀬昌也、そして梶山の存在も欠かせない。陰に日向に安藤をサポートしてきた数多くのチームメイトやスタッフもそうだ。そうした周りの人々を引き寄せる魅力こそが安藤の名前には込められていて、それを本人が自覚しないほど自然に醸し出しているうちに、さらなる高みへと導かれていったのだ。まさに「名は体を表す」である。こうして安藤は名古屋Dのフランチャイズプレーヤーとしての歩みを進めている。
part2へ続く
文 三上太
写真 沼田侑悟