親がバスケットをしていて、子に「しゅうと」という名前をつけていれば、周囲の人々はたいてい「シュート」からその名をつけたに違いない。まずはそう思うはずだ。名古屋ダイヤモンドドルフィンズの安藤周人もその一人。両親、兄、姉がそろってバスケットの経験者。しかも彼はアウトサイドからのシュートを得意とするシューターである。これはもうシュートからインスピレーションを得たに違いないと思ったが、本人はあっさりと否定する。
「いや、全然違います。僕も周りから言われすぎて、親に聞いたんですけど、『全然違うよ』って言われました」
では何なのか? 明確な答えは得られなかったが、安藤のプロバスケットボール選手になるまでの歩みを振り返ってみると、そこに親の想いが伝わってくるように感じられる。すなわち彼の「周」りに「人」が集まり、その人たちに導かれ、支えられて、彼はスポットライトの中へとその歩みを進めたのである。
安藤周人 ── 1994年6月13日生まれの25歳。バスケットを本格的に始めたのは小学4年生のときだが、それよりもずっと前、物心がつくころからすでにバスケットボールと戯れていた。
「家の前にリングがあって、兄が父と一緒に練習しているところに僕がわちゃわちゃとボールを触ったりして邪魔をしていたんです。そのうちに『僕もバスケットをやりたい』と言っていたんですけど、兄とは7つも年齢が離れていたので、母に『体一つじゃ追いつかないから、お兄ちゃんが1人で練習に行けるようになるまでちょっと待って』って言われて、やっと僕の面倒を見られるようになったのが小学4年生だったんです」
そこから四日市市立内部中学校を経て、父と兄も学んだ県立四日市工業高校へと進学する。四日市工業といえば桜井良太(レバンガ北海道)の母校であり、今夏のインターハイこそ2回戦で敗れたものの、10年連続で同大会に出場している三重県随一のチームである。安藤はそこで兄の恩師であり、父の後輩でもある水谷幸司の指導を受け、心身を磨いていった。この水谷との出会いこそが安藤をプロの世界に導いた原点であり、ターニングポイントとなる。
高校時代の安藤はのちに自分がプロバスケットボール選手になるとも、日本代表として13年ぶりの出場となったワールドカップの舞台に立つことさえも考えていなかった。それ以前に大学進学も視野に入れていなかった。だから高校卒業後の進路を尋ねられたときも、ためらいなく「就職」を希望した。
「僕の最初の夢は父と一緒に通勤することだったんです。僕が運転する車に父を乗せて、一緒に通勤して、一緒に帰る。これが夢だったんです」
しかし安藤の進路希望を知った水谷が「待った」をかける。入学当初こそ180センチに満たない安藤だったが、3年生になったころには190センチを超えていた。それだけの身長があり、また才能の片鱗も見える安藤を卒業とともに就職させるのはもったいない。水谷はそう考えたわけだ。