5月30 日、千葉ジェッツが石井講祐との契約満了を発表したとき、多くのバスケットボールファンが驚きの声を上げた。ジェッツブースターのそれは悲鳴に近かったかもしれない。練習生から数えて6年、石井の成長はチームの成長と比例し、昨シーズン受賞したベスト3Pシュート成功率賞のみならず常に献身的なプレーでチームの勝利に貢献してきた。ジェッツを去る決心をした理由について多くは語らないが、そこに至るまでの日々には口にできない葛藤があったのは間違いないだろう。
自分がやろうと決めたことは最後までやり通す
生きていれば誰にでも大なり小なり“人生の分岐点”がある。右の道を行くか、左を選ぶか、それともこのまままっすぐ突き進むか。バスケットボール選手として石井講祐が立った最初の分岐点は18歳の夏だったかもしれない。この年、地元千葉で開催されたインターハイに出場した石井は「この大会が終わったらバスケットを辞めよう」と決めていた。夏が始まるとき、彼が目指そうとしていた道にバスケットはなかったのだ。
生まれも育ちも千葉県船橋市。4歳下に双子の妹がいる3人兄妹の長男だったこともあってか、子どものころからしっかり者だった。「いえ、しっかり者だったかどうかはわかりません(笑)。けど、まあ結構まじめだったとは思います。自分がやろうと決めたことは最後までやり通すみたいなところはありましたね」───小学4年生から始めたバスケットもその1つだ。「ここで全国大会に行く」という目標と「バスケだけじゃなく勉強も頑張る」という決意を持って進学した県立八千代高校では、目標どおりインターハイ、ウインターカップの舞台を踏み、学業成績においても常にクラス5番以内を貫いた。進路を考える時期になったころ興味を持ったのは理学療法士。「国家試験がありますから、高校卒業後はその勉強をしたいと考えていました」。
ところが、“最後”と決めて出場したインターハイで石井はめざましい活躍を見せる。1回戦、2回戦を勝ち抜き、秋田の名門能代工と顔を合わせた3回戦では得意の3Pシュートを中心に45得点をマーク。試合は101-117で敗れはしたものの、石井のシュートが決まるたびに場内は大きくどよめき、地元の熱い声援は最後の最後まで途切れることはなかった。「あの試合のことは今も忘れられないです。会場は船橋アリーナだったんですけど、試合が終わっても観客席からずっと拍手が鳴り響いて、ああバスケットをやっててよかったなあって、本当に胸がいっぱいになりました」───バスケットを続けようと思ったのはあのときだったのだろうか。気がつけば目の前に広がっていたもう1本の道。季節が秋に変わるころ、石井は理学療法士の道に背を向け、強豪東海大へ進む決意を固めた。
しかし、選んだのは厳しい山道だった。希望を持って入学した東海大で石井を待っていたのは想像のはるか上を行く世界。「もう最初から打ちのめされましたね。練習のすべてのレベルが高くて、毎日自分に足りないものを痛感して、毎日現実を突き付けられているような感じでした」