part1「多くの人に『べルテックスがある生活』を送ってほしい」より続く
30歳で現役を引退するつもりだった自分が静岡へ
発足したべルテックス静岡の初代選手会長に就任した大石慎之介は1987年静岡県沼津市に生まれた。小学3年生からバスケットを始め、以後、中学、飛龍高校、浜松大学(現常葉大学)と県内でプレーしてきた生粋の静岡っ子である。県外に出たのは大学4年次にアーリーエントリーで入団した仙台89ers(当時bjリーグ)と卒業後に2年間プレーした宮崎シャイニングサンズ(2012-2013シーズンを持って活動中止)のみ。2012年にbjリーグ浜松東三河フェニックスに移籍して故郷に戻ると、Bリーグが開幕した2015年から三遠ネオフェニックスと改名したチームでB1リーグの舞台に立った。
「浜松東三河フェニックスに移籍したとき、バスケットに対する選手の意識の高さに驚きました。たとえば練習が10時からだとすると選手もスタッフもその2時間前には体育館に来ます。毎回、全員です。2時間かけてしっかり準備をしてチーム練習に入るわけですね。それだけでなく練習が終わったあともまた全員が納得のいくまで自主練に汗を流します。もちろん、それまで自分が在籍したチームにも同じような選手はいましたが、全員がそれを当たり前のようにやっているのは初めてでした。なんていうんでしょうか。チームとしてそういうカルチャーが根付いているんだなあと感じました」
さらに三遠ネオフェニックスとして参入したB1リーグではバスケットのレベルの違いに目を見張ったという。
「正直、それまで分かれていたbjリーグとNBLなら、エンターテイメントの部分ではbjリーグの方が勝っているように思いましたが、バスケットのレベル自体はNBLの方が上だと感じていました。その2つのリーグが1つになった「Bリーグ」で痛感したのは、これまで経験したことがなかった体の当たりの強さやプレー1つひとつのクォリティーの高さです。細かなプレー1つとっても質の違いを肌で感じました。でも、それが自分にとって大きなプラス要因になったんですね。思えば中学のバスケ部の顧問はバスケに関しては素人の先生で、プレーを教わるというより走ることがメインの練習をしていました。高校のときは先生との関係に悩みバスケを辞めようと思った時期もあります。だから大学では楽しんでバスケがしたいと思っていて、関東の大学からいただいたオファーも断って地元の大学を選びました。それは決して間違ってはいなかったと今も思っています。ただ、自分の(バスケットの)引き出しが増えたか?というとそうでもない。僕はプロになってからバスケを教わったような気がします。それでも続けてこられたのはなんとか能力でごまかせていたから。だけどBリーグの舞台ではそうはいきません。今まで能力任せで通用していたプレーが通用しない。そうなると、じゃあどうやって打開すればいいのか考えますよね。考えて、考えて、考える。考え抜くことで自分のバスケットIQが上がっていく。僕の引き出しが増えたのはプロになってから、特にBリーグになってからだと思っています」