── 不安はなかった?
全然なかったですね。それよりむしろ変な自信がありました。アメリカのバスケがすごいと言われても実際に試合したこともないから実感がないじゃないですか。だから、向こうに行ったら意外とやれるんじゃないかって、今思っても不思議な自信ですよね(笑)
── ところが、渡米したとたん進むはずだった奨学金付きのプレップスクールの話が白紙になり、いきなり窮地に立たされたわけですね。
もう人生最大の窮地でした。まさか自分のアメリカ生活が浪人からスタートするなんて考えてもみませんでしたから。
── 通うべき学校がなくなったことで、どんな生活を送っていたのですか?
住んでいたのはニューハンプシャーのど田舎なんですが、本当にすることがないんですよ。朝起きて英語の勉強をして、近くの森まで走りに行って、帰ってきたらまた勉強して、近くの公園に1つだけある曲がったリングでバスケして、自分でご飯作って食べる…みたいな生活でした。日本から電話があって、父親の「頑張れ」の声を聞いたとき、泣いたことを覚えています。それまでも自分はこれからどうなるんだろうと考えると、不安になって1人で何度も泣きましたが、父親との電話で泣いたのはそれが初めてでした。
── それでも日本に帰ろうとは思わなかった?
それは1度も思わなかったですね。そこで帰ったらアメリカに来た意味がないじゃないですか。ここで頑張って、今より絶対うまくなってみせると思ってました。
── カリフォルニアのオーロン短大に進み、そこからディビジョンⅡのドミニカン大に編入したわけですが、その進路も全て自分で決めたのですか?
はい。向こうのルールで、大学でプレーする資格がない僕は短大を選ばざるをえなかったんです。実は最初は短大ということでちょっと舐めてたんですよ。ところが実際入ってみたら海外から来ている選手たちがオーストラリア、スペイン、セルビアとそれぞれ同世代の国の代表クラスで「えぇ、こんなにレベルが高いの?」と本当にびっくりしました。そこからはまた努力、努力です。ここでの2年間は自分のバスケ人生の中で1番成長できた時間だったと今でも思っています。そう思うと、ジョージ・ワシントン大で活躍している渡邊雄太とかゴンザガ大で頑張っている八村塁がどれほど努力しているのかがわかりますね。多分日本にいる皆さんが想像しているよりもっともっとものすごく努力をしていると思いますよ。
── 大学を卒業して、日本でプレーすることを選んだ理由は?
やっぱり2020年の東京オリンピックが大きいですね。日本のリーグでプレーして自分がこれまでアメリカで学んできたものを発揮しながら、日本のバスケにもアジャストして、日本代表に入りたいと思いました。オリンピックの舞台に立つことが目標です。
── 横浜ビー・コルセアーズに入る決め手となったのは?
Bリーグについては三遠にいる兄や10年以上付き合いがある勇樹(富樫・千葉ジェッツふなばし)からいろいろ話を聞いてました。横浜は昨シーズンB1で(18チーム中)17位に終わったチームです。けど、これからどうしたらもっと強くなれるかを考え、試行錯誤しながらも前進していくチームだという印象を受けました。そこに大きな可能性を感じたし、上を目指して自分も一緒に挑戦していきたいと思いました。この場所でまた自分の最大限の努力をするつもりです。生きていると、うれしかったり、楽しかったり、悲しかったり、悔しかったりいろんなことがありますよね。僕にとってそういう喜怒哀楽を1番味わえるのがバスケなんです。なんていうか、バスケをやってると全身で「生きてるなあ」と感じるんです。目標に向かって準備する過程も楽しいし、リーグ開幕が待ち遠しいですねぇ。ほんと、今からもうわくわくしてるんですよ(笑)
文 松原貴実
写真 安井麻実
撮影協力 コートヤードHIROO