※本記事はバスケットボールスピリッツのWEB化に伴う、2017年11月末発行vol.15からの転載
インターハイで2試合連続50点超の得点をマークした少年は、19歳でプロ選手となり、翌年には日本代表メンバーに選出され世界選手権に出場、22歳で日本人選手として24年ぶりとなる国内トップリーグ得点王に輝いた。振り返ればその規格外のシュート力で日本バスケット界を牽引してきた川村卓也。彼が語る『枠にはまらぬバスケット道』とは?。
── 本格的にバスケットを始めたのは小学4年生だと聞きました。
小学3年生までやっていたソフトボールクラブの部員が減ってしまって、1つ年上の友だちに「隣の小学校にミニバスのクラブがあるから行ってみない?」って誘われたのがきっかけです。練習は厳しかったし、最初は全然楽しくなかったんですよ。というよりバスケットが嫌いでした。だけど練習するうちにシュートが入るようになって、ミニバスには3ポイントはないですが、それぐらいの距離からも入るようになったんですね。で、気がついたら、あれ、バスケ、結構おもしろいじゃんって(笑)
── 初めて全国大会に出たのは中学のジュニアオールスターですか?
そうです。優勝はできなかったけど大会ベスト5に選ばれました。そのとき副賞みたいのを授与してくれたのが佐古(賢一)さんで「ああこの人はバスケのプロなんだ」って、なんか感動したのを覚えています(笑)。全国大会には巧いやつがいっぱいいて、特に福岡の寒竹隼人(現大阪エヴェッサ)、堤啓士朗、山下泰弘(ともに現ライジングゼファーフクオカ)はハンパなかった。けど、俺も負けてない、あいつらにできることは絶対俺にもできるはずだと思っていました。盛岡南高校に進んだのも東北の強豪校と言われた能代工と仙台を倒したかったからです。相手が強ければ強いほど燃えるみたいな、そういうところは昔からありましたね。
── 高校卒業後はプロの道を選びました。初の“高卒プロ選手”になることに迷いはなかったですか?
今もそうですが、高校である程度活躍した選手の多くは大学に進みます。当時、僕もそれがあたりまえみたいに思っていました。でも、そんなとき出会った中村和雄さん(当時オーエスジー監督)に「どうせ勉強もしないのに、本当に大学に行く意味があるのか? おまえにはバスケットの才能があるんだから、それをしっかり伸ばすためにも俺のところに来い」と言われ、大学以外にもそういう選択肢があるんだと考えるようになりました。プロになると決めてから迷いは一切なかったです。
── それにしてもまだ19歳、実際コートの上で臆することはなかったですか?
確かに周りの選手の方がフィジカルは勝っていて、ぶつかり合うことに関しては多少恐怖感もありましたが、シュートは自分の方が入ると思っていたし、技量では負けていないと思っていたし、なぜかわからないけどそういう自信はあって〝臆する〟ことはなかったですね。だから、その分ガンガンぶつかっていけたと思います。思うに自分に足りないもの、苦手なものばかり考えていたらダメなんですよ。それより自分が得意なもの、できるものを頭に置いて、何をするためにここにいるのかを考える。自分の力を信じろ! ってことです。それができなくなったら終わり。それができなくなったら僕はバスケットを辞めると決めてます。