そこで待っていたのは校長先生の隣りに立つ1人の男性。「それが和さんでした。僕の将来を変える人です」。太田が「和さん」と呼ぶ中村和雄はバスケットボール界で広く名が知られた指導者。長崎の鶴鳴女子高校を日本一にしたのを皮切りに共同石油(現JX-ENEOSサンフラワーズ)を常勝チームに育て上げ、女子日本代表チームの監督も務めた。「和さんはその後オーエスジーフェニックス東三河(JBL)のヘッドコーチに就任していたんですが、その日は同じ豊川市にあるうちの中学にたまたま挨拶に来たみたいなんですね。で、校長先生がバスケットならうちにも2mを超す選手がいるんで紹介しますということになったらしく、急きょ僕が呼び出された。と、まあ、そんな流れでした」
太田が通う豊川市立東部中学のバスケット部は毎年地区大会の壁が破れず、太田個人はジュニアオールスターのメンバーに選出されていたものの「僕が際立ってデカいから選ばれていただけで、技術的には全然だめな選手でした」と言う。が、太田をひと目見た中村は「部活が終わってからでいいから、うちの練習に参加してみないか」と声をかけた。「それで夏ごろから部活のあとにオーエスジーの体育館に通うようになったんです。練習に参加するといってもちょこっと混ぜてもらってアドバイスをもらうぐらいだったんですが、レベルが高いプレーを間近で見られることはすごく刺激になりました。バスケットをやって生活していく道もあるんだなあとか、自分もそういう道を行けるかなあとか、ぼんやりでしたが、そんなことも考えるようになりました」
高校進学に関しても中村は尽力を惜しまず、全国の高校に太田を紹介すると、実に73もの高校から誘いの声がかかったという。「僕は勉強が苦手だったし、高校進学について悩むこともありました。そしたら73の高校からオファーがあったと聞いて、もうめっちゃびっくりですよ。最初はいくらなんでも73校というのは盛り過ぎだろうって信じなかったんですが、詳しく聞いたら本当でした(笑)。その中から和さんが僕に合った高校を絞ってくれて、結果、千葉県の市立柏高校に進むことになったんです」
親元を離れての下宿暮らし。バスケットボール部の練習は厳しく「毎日いやというほど絞られた」というが、その甲斐あってインターハイ、ウインターカップと全国の舞台を経験し、未来のホープとして着目されるようになる。その後進んだ日本大学では菊地祥平(アルバルク東京)との2枚看板でチームを牽引し、数々の大会で慶應大の竹内公輔(栃木ブレックス)や東海大の竹内譲次(アルバルク東京)としのぎを削った。太田が描いていたうっすらとした“未来の自分”が次第に形を成しはじめたのはそのころだろうか。「自分を生かす道はバスケットしかないとわかっていたつもりですが、それをはっきり意識するようになったというか、バスケットで生きて行く自分が見えてきたような気がします」
22歳の春、太田は中村が指揮するオーエスジー東三河フェニックスに入団。期待の大型ルーキーとして新たなスタートを切った。
part2に続く
【365日、怒られて、怒られて育った】
文 松原貴実
写真 安井麻実