── 卒業後、能代工に進学するきっかけとなったのは?
信長先生(当時の能代工監督・佐藤信長)に声をかけていただいたのがきっかけです。でも、それもまあラッキーだったんですよ。僕がクラブチームで練習していたとき、信長先生がいらして、多分エースだったヤツのプレーを見に来たんだと思うんですが、そのときたまたま僕の調子が良くてシュートがボンボン入ってたんですね。そしたら、あいつは誰だ?みたいなことになって、声がかかったんです。
── 埼玉から秋田は遠いですけど、すぐに決心したんですか?
はい、迷うことはなかったです。能代工は高校バスケット界で一時代を築いた名門校じゃないですか。でも、正直、当時の僕は能代工のことはあまり知りませんでした。ただ好きなバスケットを必要とされているところでやりたいというのがあって、自分を求めてくれるのなら行きたいと思ったんです。練習も1回見にいって、ここだったら環境もいいし、成長できる気がしました。あと、中学の先輩の(長谷川)暢さんがいることも心強かったですね。いろいろ話も聞けたし不安は感じなかったです。
── 初めて親元を離れて寮生活が始まったわけですが、苦労したことはなかったですか?
いろいろルールもあって、最初は厳しいなあと思うこともありましたがすぐに慣れました。寮母さんがいて食事も作ってもらえるし、不便なことはなかったですね。苦労と言ってはなんですが、強いて言えば秋田弁がわからなくて困ったことはあります(笑)。訛りというより方言ですね。たとえば『ゴミを捨てる』ことを能代では『ゴミを投げる』って言うんです。最初、先生から「ゴミ、投げとけ」と言われたときは意味わかんなかったですし、おじいちゃん、おばあちゃんが言ってることが理解できなくて返事に困ったこともあります。正直、今でも理解できるとは言い切れません(笑)
── バスケットはどうですか? やはり練習は厳しかったですか?
毎朝7時半から朝練があって、1年生は準備のためにそれより早く体育館に行かなきゃならないので朝はちょっと辛かったですね。練習自体はもちろんきつかったですが、それは予想していたことなので苦にはなりませんでした。朝練やって、放課後の部活をやって、寮に帰って夕飯食べてからシューティング…と、ほぼバスケ漬けの生活でしたが、それはそれで楽しかったです。僕はほんとにバスケが大好きなのでバスケしてるときは楽しいんです。
part2に続く
【「能力任せではない“巧さ”がある選手が好きです」】
文 松原貴実
写真 安井麻実