だが、どれだけ周りの温かいサポートがあったとしても『ダメになるかならないか』を決めるのはあくまで本人だ。逆境にくじけず努力を続けることは本人にしかできない。『ダメにならなかった』という証があるとしたら、小島がそれを示してみせたのは大学最後のインカレ決勝だったのではないだろうか。筑波大と対戦した東海大はスタートでつまづいた悪い流れを断ち切れないまま最終Q(クォーター)を迎える。残り4分を切って43-59。会場にはすでに「勝負あった」の空気さえ流れていた。が、東海大はそこから小島の連続3ポイントシュートで猛追を見せる。ハイライトは残り2分、ファウルで大きく体勢を崩しながらそれでも決め切った渾身の3ポイントだ。ボーナスワンスローをきっちり沈めて56-59。騒然となる場内で小島は何度も力強く自分の胸を叩いた。逆転は叶わず、試合は土俵際で押し返した筑波大に軍配が上がったが、最後まで鬼気迫る形相でゴールに向かった小島の姿には彼の『頑張った4年間』が凝縮されていたような気がする。
プロ選手になりたいと思ったのはいつのことだったか。「プロを意識するようになったのは4年生になってからですが、最初は母ちゃんがあまり賛成じゃなくて、自分自身も迷うところがありました」。就職して関東実業団のチームでやることも視野に入れていたという。「でも、考えれば考えるほどやっぱりプロとしてバスケがしたい気持ちが強くなって、ある日、母ちゃんに電話したんです。自分の気持ちを正直に、真剣に話したら『わかった』って言ってくれて、そこから(プロチームの入団に向けて)動いたという感じです」
プロ選手としてのスタートは京都ハンナリーズだった。「当時はbjリーグのチームでしたが、プレーオフには毎年のように出ていたし、リクさんからも『炎さん(京都ハンナリーズ浜口炎ヘッドコーチ)のバスケはいいぞ』と聞いていたし、大学の先輩の内海(慎吾)さんがいるという安心感もありました」。入団間もない時期からプレータイムをもらった小島は途中からスタメンにも起用され「新人王のライバルは京都の小島元基です」とベンドラメが名指すほどの存在感を発揮する。事実リーグ中盤のケガ(左膝半月板損傷)さえなければ、最後までベンドラメと新人王を争っていたかもしれない。「肝心なところでケガしゃちゃうんですよね、俺」と、本人は苦笑いするが、京都のブースターたちはそんな小島を見守り、待ち続けてくれた。「京都のブースターのみなさんはいつでもめちゃくちゃ温かくて、ほんとに、ほんとに感謝しかないです」。それだけに翌年アルバルク東京へ移籍する際には複雑な思いもあった。「リーグのトップチームであるアルバルクでプレーできることは選手としては純粋にうれしい。けど、京都も大好きだったし、ブースターの皆さんにはケガの間もずっと応援してもらったのに、戻ってきたらすぐ移籍するって、何て言えばいいのか、皆さんを裏切るみたいな感じになるんじゃないかと、それだけは本当に心が苦しかったです」。けれど、どれほど心が痛もうと、それは自分が選んだ道だ。プロの自分が選択した道。迎えた2年目のシーズン、小島はアルバルク東京のユニフォームを身に付け、新たな一歩を踏み出した。
part3に続く
【これからも小さな一歩を積み重ねていく】
文 松原貴実
写真 吉田宗彦