兄が通う中学のバスケット部は部員数が少なかったため越境して別の中学に入学することになるが、兄と同様「全中に出る」ことを目標に置いた。「全国の舞台を踏んで、県外の強豪高校に入ることが夢でした。けど、関東大会で負けてしまったんです」。結果、県外の強豪校に進む夢は叶わず、地元のつくば秀英高校へ進学することになる。「秀英は以前父ちゃんが監督をやっていた高校だし、兄ちゃんが3年だったときにウインターカップベスト16にもなってます。だから、(つくば秀英に進学することが)いやだったとか、不満があったとか、そういうのは全然なかったです」。ただ、心のどこかに「兄ちゃんを超えたい」という思いがあったのは確かだ。15歳の小島にとって県外の強豪高校に進むことはそれを叶えるための一歩に思えたのかもしれない。「自分はもっとできるはずだと思っていたのに、現実は厳しくて、ああ自分はこんなものなのかなあって…。正直、ちょっと自信が揺らぐのを感じました」
当時の小島の身長は172cm。身体は驚くほど細く、武器は高確率のアウトサイドシュートだったが、「スピードがあるわけじゃないし、ドライブなんかは全然行かなかったし、ほんとに外のシュートだけの選手でした」。その小島に転機が訪れたのは高校3年のときだ。「東海大出身の稲葉(弘法)監督のつながりで東海大からトレーナーの(小山)孟志さんが身体作りの指導に来てくださったんですね。きっちりしたウエイトトレーニングをするようになったら、食事の量もすごく増えて、身長が一気に伸びたんです。細かった身体もどんどんたくましくなっていきました。突然変異とまでは言いませんが、自分的にはそれに近い変化でしたね。一気にキター!って感じです(笑)」
身体が大きくなりフィジカルが強くなると、自分の引き出しを増やしたいという欲も出てくる。「自分を成長させるためにも関東大学リーグ1部のチームに行くというのが新たな目標になりました」。当時の小島には行きたいと思っていた大学があり、練習に参加したこともあるのだが、結局入部には至らなかった。そんなとき小島のプレーに目を留め、声をかけてくれたのが、東海大の原田政和コーチ(現東海大相模高校監督)だ。東海大は恩師である稲葉監督の母校、陸川章監督と父は同じ新潟出身で、日体大の先輩、後輩という縁もあった。とはいえ、東海大には全国の舞台を踏んだ有力選手が集まる。練習がハードなことは聞いていたし、そこで競い合ってレギュラーの座を勝ち取ることの厳しさも容易に想像できた。「それでも(東海大に)行きたいと思いました。1番背中を押してくれたのは父ちゃんの言葉です。『東海大なら日本一を狙えるぞ。厳しい練習の中で自分を磨くつもりなら申し分ないチームだろう』って」
3年前「ああ、自分はこんなもんなのかな…」と、下を向きかけた小島の負けん気がゆっくり頭をもたげる。「こっから、こっから」――気がつくと、心の中でそんな言葉を繰り返していた。「こっから、こっから、また一歩ずつだ」。
part2に続く
【ケガに泣き、ケガを乗り越えた先に『プロの道』があった】
文 松原貴実
写真 吉田宗彦