大学卒業後、社会人となって行き場を模索
早稲田大学卒業後、1度バスケを引退し、就職した経験を持つ。その事実だけを聞いていたので、バスケへの情熱が冷めたのかと思っていた。
「今だから本当のことを言えば、僕はずっとトップリーグ(当時JBL)でやりたかった。父が日立(現サンロッカーズ渋谷)の選手だったいうのも大きい。実は実業団チームから内定ももらっていたけど、土壇場で契約を交わせなかったんです」
強豪校で研鑽を積んできた井手選手だったが、自分の意志とは違う形でそのレールから脱線してしまった。「そういう運命なのかな」と潔くバスケから足を洗い、自分を変えるため、次の目標を見つけるために就職を選択。卒業まもない頃、JBLを観に行けば「このレベルでもできる自信があった」、強いと言われるクラブチームでプレーをしても「物足りない」。bjリーグへ進む道もあった。しかし、元トップリーグ選手の父はその実情も知っており、「プロになっても引退した後にどうするんだ」と正論を突きつけられる。その質問に対する答えや知識、資格もなかった当時の井手選手は諦めるしか道はなかった。
卒業時は、東日本大震災に見舞われたときである。誰もが不安を感じ、先が見えない思いもした。予定された新人研修が延期となり、ふと時間が空いたときに自分自身へ問いかけてみた。
「バスケが好きだからこそきついことも乗り越えられてきたけど、今の環境でダラダラと過ごすのは自分の性に合っていないのではないか」
研修期間を終えた6月末には退職し、再びバスケのレール上に戻ってきた。
相次ぐ契約破棄!? 不遇続きのバスケ人生にようやく光が差し始めた
一度外れた歯車を戻すのは簡単ではない。再び歩み始めたバスケ人生は、不遇の連続に見舞われた。年表にしてみよう。
■2011年
・TGI Dライズ(以前あった栃木ブレックス下部チーム)へ書類を送る
・同時期にレバンガ北海道のトライアウトを受け、合格
・契約へ向けた面談に備えていたが1ヶ月間連絡なし。ようやく電話が来るも合格が破棄されたことを告げられる
・早稲田大学時の先輩や多嶋選手の伝手を使って再びTGI Dライズの門を叩く
・たまたま書類審査を通過していたのは井手選手だけであり、誰も採用していなかったことでその枠に滑り込む
・TGI Dライズの一員ながら、プレシーズンゲームはブレックスの一員としてデビュー
・そのシーズンはTGI DライズとしてJBL2(下部リーグ)のコートに立つ
「川村(卓也)さん(現横浜ビー・コルセアーズ)にはすごくよくしてもらいました。いろんな相談をして翌シーズンはbjリーグに行くことを決めました」
■2012年
・ドラフト1巡目で島根スサノオマジックに入団
・ドラフト指名はジェリコ・パブリセヴィッチヘッドコーチの意向ではなかったこともあり、「シュートを打つな」と井手選手の武器が封印させられる
・理不尽とも言える指示を受け入れ、別のプレーでもヘッドコーチに認められるよう努力する日々
・その努力の甲斐あり、少しずつプレータイムが与えられる
・最後は、翌シーズンから和歌山トライアンズで指揮を執ることになったヘッドコーチに「一緒に行こう」と誘われるまでの信頼を勝ち獲った
「これまでのスタイルを否定され、すごく怒られました。それでも僕はジェリコさんの言うことに従って、半年間以上ガマンして練習中でもシュートを全く打たずに、それ以外の部分でアピールできるようにしていたら、信頼を得て試合に出られるようになったんです」
■2013年
・和歌山に誘われるより前、デイトリックつくば(JBL2)と契約に至る
・しかし開幕前に経営難で運営会社が変更となり、契約自体が白紙になる
・埼玉ブロンコスからオファーを受けるが、翌日「別の選手で決まってしまった」と断られる
・早稲田大学の先輩が手を差し伸べ、東京サンレーヴスの入団が決まる
「島根にいましたが、急きょ呼ばれて翌日の朝一に航空券を買って東京へ。その日、しっかりとパフォーマンスを見せたことで合格をもらいました。提示されたのは、『東京なのにこれで生活できるんですか?』という程度の年俸です。でも、行き場はない切羽詰まった状況だったので、交渉さえせずに入団を決めました」