2010-11シーズン、ドイツでもタッグを組んでいたドナルド・ベックHCとともにトヨタ自動車(現・A東京)に入団。当初は日本で2年プレーした後、古巣の新アリーナ完成に合わせてドイツに戻るつもりだったそうだ。
「性格的に、どこに行ってもその地域に慣れて住むことができると思うんですが、日本に来てからは離れられなくなって、他の国に行くことは考えられませんでした。身長がそれほど高くないにもかかわらず、アパートの天井が低くて何度か頭をぶつけてしまったことと、車が左車線ということ、その2つだけは慣れるのに時間がかかりましたが、それ以外は日本の全部がすぐに好きになりました」
気づけば日本で15年過ごし、プロキャリアは20年を超えた。ここまで長く日本でプレーしたことは、想定していなかったことではあるものの、「ドイツにいたら、たぶん20年もプレーできなかったと思います。ドイツでは平均35分以上出ていましたが、日本はルールの関係で、僕が来た頃は平均19~20分。体の負担が減ったことで、選手としてのキャリアが長くなった」とギブスは感謝している。
40歳を超えてなお第一線でプレーし続けられたのは、「夏のオフシーズンに子どもたちと遊んで、そこで体を作り、若さを保っていた」ことも秘訣だと語るギブス。加えて、試合に臨むメンタリティーの重要性も強調する。成功の源は、その精神面の強さだ。
「ドイツでもこの身長でリバウンド王になりましたし、日本でも達成できたことはいっぱいあると思います。マッチアップの相手はいつも2メーターを超えていましたが、『絶対にこいつらよりも試合を支配してやる』というのがモチベーションで、それは毎試合自分に課していたことです。日本人選手と変わらない身長でこのポジションをやって、体を使ってプレーするというときに、全てを出しきるという意識の持ち方は必要なことだと思いますし、若い選手にも同じ意識を持ってプレーしてほしい。44歳でもできるんだから、みんなにもできる。そのことは伝えてきたつもりです」
それこそが、安齋HCがギブスを越谷に招いた最大の理由と言っていい。バスケットとの向き合い方や戦う姿勢を常に選手たちに求めてきた安齋HCにしてみれば、ギブスは最高の手本。試合後の記者会見では事あるごとにギブスの名前を出し、そのメンタリティーをチーム全体に植えつけようとしていた。
いついかなるときも安齋HCが「ジェフに助けられてる」とギブスの姿勢を称え、「他の選手も見習ってほしい」と繰り返していたのに対し、ギブス本人はチームが勝たなければ満足しなかった。23点差の完敗を喫した11月3日のサンロッカーズ渋谷戦、ギブス自身は21得点12リバウンド5アシストという数字を残しておきながら、会見で「チームにエナジーを与える役割を果たせたか」という問いに「YESと言いたいが、チームを勝たせることができなかったからNO」と反省しきり。わずかに2点及ばなかった12月18日の宇都宮戦でも「自分がもっと良いプレーができていれば、結果も違ったかもしれない」と、黒星の責任を負った。