震災から学んだ「輪」を世界に発信する
利発で聡明、バスケットの酸いも甘いもよく知る志村であれば、しかも両親が揃ってバスケットの指導者ということであればなおさら、彼もまたコーチの道に進んでおかしくなかった。しかし2年前、志村は現役を引退するとフロントに入った。昨シーズンはGMとして、今シーズンからは代表取締役社長として、チームをリードしている。
なぜコーチではなかったのか。
「実は僕、小学5年生のときに父親と2人きりでアメリカのロサンゼルスにNBAを見に行っているんですね。そのとき『いつかこの雰囲気や会場が日本で見られたらいいな』って、なんとなく頭の片隅に焼き付いていたんです。当初はそれがプレーヤーとしてのインスピレーションだと思っていたんですけど、2020年に入ってから、もしかしてそれってマネジメントサイドに入って、NBAのような雰囲気、NBAのような会場を作りたいっていう思いだったんじゃないかって思うようになったんです」
自分がコーチになることには今もピンと来ない。もちろんアドバイスはできる。それだけの経験を積んできた自負もある。しかしその経験が邪魔をするのではないか。まだ現役の選手だった頃、多くの“先輩”たちからさまざまなアドバイスを受けてきた。「俺だったら……」。「俺たちのころは……」。それが志村にはストレスだった。その先輩たちと同じ境遇になった今は、彼らの気持ちや言動も理解できるのだが、当時はどこかで受け付けない気持ちもあった。だから、現場は本職のコーチに任せて、自分は「たまにアドバイスをするおっちゃん」くらいでいいと思っている。選手から「うるせぇなぁ、社長」と言われるくらいでいい。でも何かの拍子に「ああ、社長の言っていたことはこれだったのか」と落ちてくれたら、先輩としての面目も立つと笑う。
それよりも今は代表という立場で地元のためにできることをしたい。
「今、10年前のナイナーズを知るメンバーが選手、フロントスタッフを含めて、僕しかいないんです。だから僕がしっかりと伝えていかなければいけないなと。僕たちのクラブには、あの大震災から学んだ『人と人とのつながり』だったり、『輪(和)』という気持ちを、バスケットを通じて、日本だけでなく、世界中に発信していこうというミッションがあります。僕はそれを担う一人だなと思って、毎日を過ごしています」
あれから10年も、このさき10年も(後編)10年の感謝を伝える「NINERSHOOP」へ続く
文 三上太
写真 三上太、B.LEAGUE